本文へスキップ

儀塩 謙信が宿敵信玄に塩を送った塩の道 松本ー梓川ー安曇野ー穂高

電話でのガイド依頼はTEL.080-1160-8288 

古道 塩の道 HOME 戻る

松本・安曇野 塩の道      → 高瀬川左岸

梓川(犀川)の渡しが3ヶ所あり、それにともない塩の道は、3ルートあります。深志(現松本)から、豊科へは、荒井の大銀杏を目指し、歩いたと言われています。
 A 松本駅 - 養老坂 - 熊倉の渡し - 豊科駅 約5時間  
 B 松本駅 - 新橋 − 飯田の渡し − 町村 − 豊科駅 約3時間  
 C 松本駅 − 新橋 − 長尾前の渡し − 真々部 − 豊科駅 約4時間 

コースガイド

牛つなぎ石

謙信から送られた「塩」がここ「牛つなぎ石」にたどりついたと伝承されている。市の守り神である「市神様」としてまつわられている。
飴市 松本、豊科、池田、大町で、正月から2月に行われている年中行事。「市神様」をまつる。 塩市が飴市になった。









国宝松本城/深志城

深志城は、永生元年(1504)に築城され、文禄(1593〜1594)年間に建てられた五重六階の天守閣は日本最古のものです。四百余年戦国時代そのままの天守が保存されており、天守閣は国宝に指定されています。その黒い姿から「カラス城」とも呼ばれます。松本城が黒いのは、大坂城は黒で統一されていたことから、石川氏の秀吉への忠誠からと云われます。また、戦国末期、鉄砲戦意識し、漆黒の天守としたとも言われます。ちなみに関ヶ原の戦い以降は、姫路城で代表されるように白亜の天守が築造されました。


縄手通り / 女鳥羽川

地名は松本城の南惣堀と女鳥羽川に挟まれた縄のように細い土手だったことに由来する。女鳥羽川は、松本城西側を北北東から、南南西に、ほぼ真っ直ぐ流れていたが、松本城の外堀として南下させてから西へと流れを変え、田川と合流させた。



浄林寺 / 源智井戸 / 中町口道標

浄林寺 山門は、元禄時代の建造で、松本市内の寺院の中で、最も古く、松本市指定有形重要文化財、鐘楼は弘化2年(1845)の立川流の建立。
源智の井戸 天保14年(1843)に刊行された「善光寺道名所図会」に、信濃国第一の名水とする旨が記載されている。
中町口道標 「右 せん光寺道」「左 大町街道」「明治12年6月」と刻む 大町街道=塩の道・千国街道

白板の船着き場跡

女鳥羽川と田川の合流地点。犀川通船は、信州新町までの60qを焼く7時間かけて下った。江戸時代後期の天保3年(1832)。その後、善光寺平まで延長されたが、明治35年(1903) 篠ノ井線の開通により廃止された。


塩倉 / 海福寺 / 塩倉池

謙信から送られた塩は、塩倉の海福寺に溜めておいたといわれる。塩倉とは、塩の貯蔵のために、錆びるため鉄くぎを使用せずに建てたくらで、この地の地名となっている。小谷村栂池高原の牛方宿に、従来、塩の道、大網部落にあった塩倉を移設復元してあります。儀塩の真偽については諸説あるが、信玄が駿州の今川氏、相州の北条と対立し「南塩」のルートがたたれた。一方、川中島で5回の戦いをした謙信は「争うべきは弓箭にあり、米、塩にあらず」として「信州の民百姓すすんで糸魚川に「北塩」えお取りにくるように」と命じたといわれる。

養老坂

養老坂が通る老根田には、縄文時代の遺跡が、また、岡田、老根田、坂下には、古墳が発掘されている。。


泣坂 夫婦惜別の岩 / 石仏群

貞享3年(1686)、加助一族が捕らわれ入牢する道すがら、妻お民と別れを惜しんだといわれる、夫婦惜別の岩と石仏群がある。


熊倉の渡し / 仏法寺

熊倉の渡しは、塩の道・千国街道で最大の渡し場であり、渡しは、昭和30年代までおこなわれていた。仏法寺の参道の枝垂桜の開花は、4月10日前後、百体観音(天保4年1833)は、見事な出来栄えである。


貞享騒動
駒町馬頭観音石碑文
貞享騒動(じょうきょうそうどう)とは、1686年(貞享3年)に信濃国松本藩で発生した百姓一揆である。中心となった多田加助の名前から、加助騒動とも呼ばれる。










拾ヶ堰(じっかせぎ)

文化13年(1816)の完成。水利権の関係で、梓川からは、取水ができず、奈良井川より取水し、梓川の地下をサイフォンの原理にて水を通している。また、拾ヶ堰は、全長約15q、勾配5p/1qというわずかな勾配の土木技術で完成させている。江戸時代の技術力に驚きを感じる。ちなみに、現在のサイホンは、平成10年に改修した。

○○○海浜公園写真

川合鶴宮八幡神社 / 飯田の渡し)

川合鶴宮八幡神社の「川合」とは、梓川と奈良井川の合流点を意味する。塩の道の飯田の渡しの正確な場所はわからなかった。写真は平瀬集落よりの川梓渡し方面、町村石仏群










青島道標 / 長尾前の渡し

青島道標 癒される地蔵様の下に「右 さ?」「左 塩?」と刻む。台座のコンクリートで埋もれ、読めず。
長尾前の渡し 梓橋が昭和6年に架けられるまで、舟渡しが行われていた。写真は長尾渡し跡 「舩魂御神石」

真々部石仏

真々部には、石仏が多い。  


立石道標 / 一日市場(ひといちば)

道標は折れ、寝かせて置かれている。「右 飛騨道」(野麦街道)「左 松本道」(塩の道)と刻む。
一日市場 糸魚川、飛騨、松本への道が交差することから、物流の豊富さから市が開かれた。江戸時代の初期においては、塩の売買は、大町村、一日市場、松本町の3ヶ所のみ許可されており、塩の道にて運ばれた塩も取引されていた。


栗尾道標 / 栗尾山満願寺

栗尾道標 「南観世菩薩 従是左栗尾道 元禄二年建立」と刻む。年代が識別できる道標としては、塩の道付近では最古の道標。栗尾道とは、栗尾山満願寺への道 満願寺は、地獄がデーマのお寺?
写真は、満願寺屏風

下柏原 石仏



養老坂矢原堰

承応3年(1654) 犀川から引水に成功し、矢原、細萱、穂高等を灌漑している。「塩の道」ではないが、柏矢駅から穂高神社までは、矢原堰沿いを歩く。
写真は、柏矢 道祖神


穂高神社 / 庚申塔 

安曇野市穂高の本宮(里宮)のほか、上高地に奥宮、穂高岳山頂に嶺宮がある。


安曇追分

「追分」は、道の分岐の意で、古道分岐集落に付けられる「地名」で、古道を探していく上では、「沓掛」「塩尻」などと同様に重要な地名です。ここ安曇追分は、塩の道である、池田道と松川道の分岐にあたり、松と休み石が面影を残している。


店舗写真

information塩の道インフィメーション

塩の道峠窯

〒399-9422
信州長野県北安曇郡小谷村栂池高原623
TEL.080-1160-8288

古道 塩の道 MAP


小谷道の駅にて販売