日野宮神
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富士山への登山口は、大宮口、須山口、須走口、そして吉田口があるが、吉田口は標高が高いために、多くの登拝者が集中した。縄文時代の遺跡からは、富士信仰の祭場とも推測される大環状列石が発掘されており、富士信仰は縄文時代にはあったと思われる。富士講は室町時代に源を発し、江戸時代中期に隆盛をきわめた。
武蔵の富士講の人々は、江戸時代に、小仏峠が開削され甲州街道が整備されてからは、大月より桂川右岸(東側)を吉田口へと向かった(富士道・谷村路)。それ以前は、古甲州道を歩き、小菅白沢の分岐にて南下し、岩殿山の北側を巻き、笹子川を渡り、桂川左岸(西側)を経て、現在の東桂付近にて、その後の谷村路の道筋に合流した。この道は、江戸時代以降も、秩父方面からの富士講の道としても利用され、秩父大道とも呼ばれた(古富士道・秩父大道)
「古富士道」の道筋は、水量の多い桂川(相模川)を避けて、その支流の笹子川の川幅の狭く、橋脚を支える橋台の地盤が固い、芝原橋付近を渡ったと思われる。
愛宕地蔵堂 石仏群の七地蔵は、寛文、延宝年間に、領主秋元氏の非法を幕府へ直訴した七人の庄屋が処刑され、そのことを哀れんだ農民が祀ったものです。用津院の六地蔵幢は、同様に七人の省やの供養のため建立、境内の石造りの「首洗い桶」は、処刑された七人の首を洗ったときに使われたと伝わる。
江戸時代末期には、小沼~吉田の谷村路は、従来の明見経由と暮地経由がありました。
食行身禄(じきぎょうみろく)元禄元年(1688年)に江戸で富士行者月行に弟子入りし、享保18年、63歳の時、富士山七合五勺目(現在8合目)にある烏帽子岩で断食行を行い、35日後にそのまま入定した。身禄という名前は、釈迦が亡くなって56億7千万年後に出現して世直しをするという弥勒菩薩から取ったもの。で、身禄は、「富士講」の基礎をつくり、身禄の娘、門人によって次々と富士講は増え、「江戸八百八講」と呼ばれるほどになった。
富士山の噴火の際、明見村の者は、「明日見ることにしよう」としたことが、地名の由来。
焼橋名前の由来は諸説あります、 一、日本武尊が火責めにあった 一、下吉田の大森の火事にて、燃えた民家の屋根が飛んできて橋が焼けた 一、戦国の武田・北条の戦いで武田軍が橋を焼き払い北条軍が全滅した 等
下吉田駅近くの、福源寺に鶴塚があります。ここに滞在していた秦の徐福が鶴に化け飛び去ったとの伝説があり、都留郡の名の由来となっているとも言われています。
御師は、下宿から上宿まで江戸時代後期には、80軒以上立ち並んでいました。
北口本宮
富士浅間神社 手水舎 2㎞ほど富士山へ登った泉水(泉瑞)から引水。水盤は石をくり貫いて造ったもので、石屋の寝床」ら切り出した。