日野宮神
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府中とは、国府の所在地(府中=国府と解釈する説もあり)のことである。大化の改新 645年)により国群制度が制定され、大宝律令(701年)にて、地方の政治の中心地として国府が位置付けられた。国府には、国司が政務を執った、国庁などの重要な施設が建てられていた場所があり、そこを国衙と言った。
総社とは、国衙の近くに置かれた神社であり、大國魂神社は武蔵の国の総社にあたる。およそ年の歴史があり、参道・境内の数多くの巨木に歴史の重さを感じる。
「古甲州道」の定義を「武蔵府中」と「甲斐府中」を結んだ官道とした。 ゆえに、府中・大國魂神社を「古甲州道」の起点とした。 一方、甲斐府中とその総社の場所に ついては、諸説あり、特定できないことから、終点は、信玄が甲斐の府中とした、甲府の武田神社とした
。
石田大橋の府中側に「三屋(さんや)」と呼ばれている地区があります。ここには、日野の石田地区と同様に土方姓が今でも多い地区です。実は、もともとは両地区は地続きだったことが理由で、
従来は三屋地区の北側を多摩川は流れていましたが、洪水によって、南へと流路が移り、両地区は、多摩川により分断されました。「三屋」という地名は、「散屋」から由来しているとも云われています。
日野用水 多摩川と浅川に挟まれた日野は低地であったため、灌漑用水が必要でした。 滝山城の城主、北条氏照の命により、美濃国から移住してきた佐藤隼人が室町時代後期、永禄10年(1567)、に開削し、江戸時代には、日野本郷・万願寺村・下田村・新井村・石田村・宮村・上田村の七ヶ村を灌漑していました。 張巡らされた用水の総延長は日野市全域で170㎞にも及び、多摩の米蔵と呼ばれ、三千石ともいわれた石高をもたらしました。 現在の取水口は八王子市にある平堰で、途中で下堰掘と上堰掘に分かれ、甲州街道をはさむように流れています。
日野宮神社 古くは日野宮権現と呼ばれていました。日奉(ひまつり)氏を祀る。日奉氏は、武蔵七党のひとつで西党を名乗り、平安時代から鎌倉時代まで東光寺付近を本拠としていましたが、日奉氏一族のほとんどは和田義盛の乱(1215)にて滅亡し、平山一族だけが存続し、その後、平山氏の子孫は檜原城主となりました。
檜原村の「檜原」は「日野原」に由来するともいわれています。 日野にはウナギを食べない習慣があります。神社のある四谷では多摩川が洪水で決壊しそうになったとき、堤防の穴をウナギが塞いでくれた伝説からです
東光寺神明社 創立年代は明らかでありませんが、武蔵七党の中の西党の祖、日奉宗頼の子孫が、また一説には、和田義盛が執権北条義時に敗れ、その残党が、伊勢神宮を勧請たとも言われている。 神明社は、各地に散在した伊勢神宮の御領地に、神宮側で建てられたものと、伊勢神宮を崇敬する人によって建てられたものがあり、前者は鎌倉時代以前から、後者は室町時代になってからといわれ、当社は、後者に属します。
永禄一二年、甲相同盟(武田l北条)の破錠により、信玄は東へと侵攻しました。北条氏照は信玄軍に対し、秋川ルートの警備を強化し、特に檜原城の守りを最重視しました。しかし信玄配下の、小山田軍は、当時あまり踏まれていなかった(後の甲州街道)小仏峠より侵攻し、北条側は現在の高尾駅近くの廿里(とどり)の戦いにて敗れました。一方、信玄は、碓氷峠より南下し、滝山城の対岸の拝島に2万の兵を陣とり、滝山城を三の丸まで攻め込みましたが落城はできませんでした、氏照は八王子城を築城し、移城し、城下町も移しました。古甲州道に残る「八幡」「八日市」「横山」地名が、八王子の甲州街道沿いにも在る理由です。この史事から、当時の甲斐と武蔵を結ぶ道の主流は、北条氏照が警戒した、檜原の浅間尾根を通る道筋であり、小山田軍が侵攻してきた、小仏峠を越える道筋ではなかったことが推定できます。当時は、軍馬などで越えることは、想定外あったと伝えられています。
八王子城 北条氏照が武田軍に滝山城を陥落間近まで攻められ、築いた山城で、氏照が滝山城から移ったのは天正12年(1584)から天正15年の間とする説が有力で、天正18年(1590)6月23日、豊臣秀吉の関東制圧の一環で、前田利家・上杉景勝軍に攻められて落城しました。一方、小田原城は、八王子城落城が決め手となって開城し、籠城を続けていた北条氏照は、兄の氏政とともに城下で切腹しました。
滝山城主北条氏 関東の戦国大名で、室町幕府の御家人の伊勢氏の一族、伊勢盛時(北条早雲)を祖とします。鎌倉幕府の執権であった北条氏とは後裔(こうえい)ではないことから、両氏を区別するため「後北条氏」とか、小田原城が居城であったことから、「小田原北条氏」とも呼ばれています。
八王子城 北条氏照が武田軍に滝山城を陥落間近まで攻められ、築いた山城で、氏照が滝山城から移ったのは天正12年(1584)から天正15年の間とする説が有力で、天正18年(1590)6月23日、豊臣秀吉の関東制圧の一環で、前田利家・上杉景勝軍に攻められて落城しました。一方、小田原城は、八王子城落城が決め手となって開城し、籠城を続けていた北条氏照は、兄の氏政とともに城下で切腹しました。
日野宮神社 古くは日野宮権現と呼ばれていました。日奉(ひまつり)氏を祀る。日奉氏は、武蔵七党のひとつで西党を名乗り、平安時代から鎌倉時代まで東光寺付近を本拠としていましたが、日奉氏一族のほとんどは和田義盛の乱(1215)にて滅亡し、平山一族だけが存続し、その後、平山氏の子孫は檜原城主となりました。
檜原村の「檜原」は「日野原」に由来するともいわれています。 日野にはウナギを食べない習慣があります。神社のある四谷では多摩川が洪水で決壊しそうになったとき、堤防の穴をウナギが塞いでくれた伝説からです
東光寺神明社 創立年代は明らかでありませんが、武蔵七党の中の西党の祖、日奉宗頼の子孫が、また一説には、和田義盛が執権北条義時に敗れ、その残党が、伊勢神宮を勧請たとも言われている。 神明社は、各地に散在した伊勢神宮の御領地に、神宮側で建てられたものと、伊勢神宮を崇敬する人によって建てられたものがあり、前者は鎌倉時代以前から、後者は室町時代になってからといわれ、当社は、後者に属します。
御前石(峠) 古甲州道と鎌倉街道が重複しています。従来は石を「御前石」と言いましたが「御前石」は地名となり、石は「駒繋石」と言われるようになりました。「御前」とは、古代においては、貴人、貴族を、中世、近世では、大名、高禄者などの高貴な人物を指す敬称で、ここの「御前」は、剛勇廉直の鎌倉武士と名高い、畠山重忠への尊敬の意から「御前石」と呼ばれました。また、重忠が駒を繋いで休んだ石との言い伝えがあります。
沢戸橋 古甲州道は、現在の西秋川橋と新沢戸橋の間(旧沢戸橋)付近を板橋にて渡っていました。今でも、旧沢戸橋の橋脚跡が岩盤に残るが、この地点が川幅も狭く、橋を架けるには絶好の場所ではなかったのかと思われます。古甲州道は、秋川の右岸を、「上ッかま」と呼ばれる秋川の淵の上から、西戸倉へと通っていました。
軍道(荷田子) 山崩れ、地滑りのことを、「山が行く」というが、「クエル」ともいい、このようにして出来たところを「崩所」(クエド)という。この「クエド」が延音されて「クエドウ」となり、「軍道」と標記するようになった。滑り落ちた所が下軍道、残った上の方が上軍道である。
檜原村口留番所 徳川家光が元和九年七月、甲斐からの侵入の警備のため設けました。幕府が監視のために設けた施設は、53ヶ所あり、重要度の高いものを「関所」(20ヶ所)他を番所としました。地形上からどうしてもここを通らないと通行できないことから「口元」をおさえるという意で「口留番所」と呼ばれ、大政を奉還した慶応三年までの245年間置かれました。口留番所近くの、「橘橋」は、江戸時代には、公儀御普請(ふしん)橋でした。ここの秋川越えは、古甲州道の難所のひとつでもあり、檜原城にとっては、自然の要害でもありました。 御普請とは、江戸時代、幕府や藩が施工した土木工事のことです。 |
檜原城落城(諸説あり)天正十八年(1590)7月12日小田原城(北条氏)落城と時同じ理由
八王子城は同年6月に、豊臣秀吉の軍勢に、上杉景勝、前田利家、真田昌幸の軍勢を加え1万5千の軍勢に攻められ、1日して1000人以上の死者を出し、落城。城主の北条氏照以下家臣は小田原本城に駆けつけており不在であり、城代の横地監物は僧呂などを連れ落城前檜原城へと脱出しました。一方、檜原城においても、城主の平山氏重らが北条方として戦っていた。監物は、武士以外の村民のためにも、無益な戦いを中止させるべきと説きました。そして、檜原城に、小田原城落城と、北条氏照、氏康の死の知らせが届き、戦う意義さえ無くなり、小田原城落城の日を檜原城落城とした。その後、監物は、小河内にて、切腹したと伝えられています。
檜原村難読地名 人里(へんぼり) 笛吹(うずひき) 神戸岩(かのといわ) 事貫(ことずら) 日向平(ひなたびら) 三頭山(みとうさん) 払沢の滝(ほっさわ)
尾根途中にある時坂集落、石仏の多さから、交通の要所だったことが伺えます。古甲州道は、生活道です。原生林を貫ける生活道は現在の日本では非常に少ない。
檜原村滝遍路 払沢の滝 62m 4段 (冬は氷結) 中山の滝 1m (鮎跳滝)
吉祥寺滝 1m 3段 橘峡 龍神の滝 18m (ムジナ滝) 九頭龍の滝 10m (横道の滝)夢の滝 19m (滑滝) 三頭大滝 35m 檜原都民の森 綾滝 21m (泡滝)天狗の滝 38m 払沢の滝遊歩道から遠望できます
著者の身勝手な解釈ですが、富士信仰の象徴に、「精進場」「富士塚」という組み合わせがあります。都内にも点在しますが、払沢の滝(精進場)、浅間尾根(富士塚)ではなかったのでしょうか?浅間嶺自体を富士塚として、信仰していたとの説もあります。
人里道標 「右ハ山道」「左ハ川のり」と刻む。人里は、上野原、西原との交通の要所であったとともに人的交流もあり、西原から人里へと嫁いだ人も多い。檜原村の資料によると、人里には、他にも2基、道標石仏が確認されています。
数馬集落は、ここが東京都?とタイムスリップしたような印象を訪れる誰もが感じます。
松姫伝説 武田家滅亡の折、信玄の四女「松姫」は甲州から逃避し、八王子の金照庵にたどり着きましたが、その逃走経路は確かでなく、一説に檜原村を通ったのではないかとの言い伝えがあります。藤原地区の民家に「松姫の手鏡」が保管されていた故からです。檜原村内にも逃避の経路については諸説ありますが、古甲州道の道筋の一部を逃走したことは確かであると思われます。
数馬切通し(JR青梅線白丸駅) 大菩薩峠越えの道のことを、青梅街道と呼ぶ人が多い。「甲斐国志」文化11年の記載も同様です。確かに、元禄年間に数馬切通しが開通してからは、主流は青梅街道であったに違いないが、それ以前は、数馬は難所であり、ましては、荷を背にした、牛馬が通れる道ではありませんでした。青梅街道が武蔵と甲斐を結んだのは、数馬切通しの開設以降です。
残念なことですが! 鞘口峠を含め、都民の森の中には、古道を偲ばせてくれる遺構はありません。山のふるさと村キャンプ場には、かつて、集落があり、古道が通っていました。
加茂神社 昭和13年小河内ダムの着工により、氏子達がこの地を離れたため、御神体は、小河内神社に合祀しました。神社の祭礼にて踊られていた「鹿島踊」(祇園踊とも呼ばれる)は、古歌舞伎踊りの面影を残しており、我が国の代表的な民族舞踊として、国の重要無形民俗文化財に指定されています。 現在は、小河内神社の祭礼(9月15日)に舞を奉納しています。
関所と番所 戦国時代に各大名が関所を設けて関税をとることは財政上の重要な収入源であった。武田氏もまた関所を多つくって通行税を徴収している。天下が織田、豊臣によって統一されてから、関所の欠点が指摘されて廃止となり、徳川氏は江戸の防衛上の手段として、新たに関所及び番所をもうけた。(小菅村郷土小誌より抜粋)
戸倉本郷の明治中期まで営業していた旅籠屋の宿帳に記載がある山梨の宿泊者は、主に郡内(大月、谷村)の者でした。江戸時代に、小仏峠を通る甲州街道が整備された後も、明治時代中期頃まで、古甲州道(秋川筋)が利用していたことがわかります。
ちなみに、古甲州道が利用されなくなったのは、大垂水峠を通る甲州街道の開通と、数馬のトンネルの開通以降です。
牛の寝通り 5㎞ほどのほとんど平坦で車も通行できそうな幅の広い尾根道が続く。巨木・奇木が乱立した原生林。まさに、原生林を貫ける生活道です。
「古甲州道」最大の闊歩が楽しめます。大ダワとは、尾根筋の低く弛んだ地形のことで峠を指します。
明治初年に、小菅村により小菅川~現大菩薩峠の道が開設されました。「古甲州道」が盛んに歩かれていた当時は、大菩薩峠は石丸峠を指していました。しかし、現在の石丸峠~上日川峠の登山道は急勾配で古道の道筋と推定するには難があり断念しました。学生時代 辞書で、「峠」を検索したら「道と道との出合い」となっていました。石丸峠を大菩薩峠方向へ登ったところから見下ろすと、まさに「峠」です。
雲峰寺百体観音 青梅街道が柳沢峠越えへと変わる以前は、千石地蔵を起点として、大菩薩峠を越えて、荷渡し小屋まで、荷を運ぶ人の安全を見守っていました。「弘化三年高遠石工の作」
裂 石 雲峰寺を開山した日本の歴史上初めて朝廷から大僧正の位を送られた僧行基(668~749年)が、巨石が裂けて、そこから出現した萩の巨木に、三体の十一面観音を彫り、三ヶ所の村へ分祀し、それぞれが 上萩原・中萩原・下萩原となったと伝わっています。
裂 石
裂石~酒折の道筋は、青梅街道と同様としました。青梅街道として盛んに利用されたのは、JR青梅線白丸駅近くの「数馬の切通し」が元禄年間(1703年)に開通してからです。
萩原口番所 甲斐の国と武蔵の国への道は、雁坂口(川浦・秩父往還)、武相口(甲州街道 江戸時代以降)、萩原口(青梅街道)でありましたが、雁坂口は標高2,082mの峠越えが難所であり、武相口は甲州街道の川越え人足による、ゆすり、たかりなどで敬遠されたため、甲州街道が開かれた慶長年間以降も、萩原口は利用されていました。残念であるが、道筋以外当時の遺構はありません。
塩ノ山の名① 信玄が塩封鎖に対して、「甲斐には塩ノ山と称する岩塩の産地がある」と言ったとの伝説ある。実際に文安年間に岩塩を産出した記録もあります。
塩山温泉(泉質・アルカリ鉱泉) 向嶽寺を開山した抜隊禅師(ばっすいぜんじ)が発見したと伝わっています。宮廷歌人の憧れの地であり、650年ほどの歴史のある温泉です。
青梅街道 慶長八年、江戸城築城の資材である、石灰を青梅、成木村からの搬入道として整備された街道です。甲斐との往来の主役として「古甲州道」に代わったのは、元禄年間に、数馬の切通しが開設されてからです。当初は、小菅村から牛の寝より大菩薩峠を越えたが、のちに丹波山村経由となり、その後明治十一年に、柳沢峠が開かれました。萩原口から道筋は北線と南線に分かれ、南線の方が古い。青梅街道時代からは、北線が主になりました。
信玄の五女、松姫。武田・織田同盟の強化として7歳の松姫と信長の敵男、11歳の織田信忠の婚約が成立。両者の仲はむつまじかったと伝えられている。元亀三年(1572)三方ケ原の戦いにて信長が徳川軍に味方したことで、武田・織田同盟が解消、婚約も解消された。天正元年(1573)信玄が死去し、勝頼が家督を継承、松姫は高遠城主仁科盛信を頼り高遠城下に身を寄せていました。天正十年2月、織田・徳川連合が甲斐へと進撃を開始。皮肉にも総大将は信忠でした。松姫は韮崎の新府城へ、2月4日、一行は海島寺(海洞寺)へ、1週間ほど滞在し、向嶽寺に1か月ほど潜んでいました。(3月11日に勝頼は自刃し武田氏は滅亡) 松姫一行は、3月24日に向嶽寺を発ち勝頼に嫁いでいた北条夫人の親元の北条氏を頼り東へ、3月27日に和田峠(案下峠)を経て八王子の金照庵に逃れました。向嶽寺からの行程に関する史実は、檜原村の藤原地区の民家に松姫のものとされる「手鏡」が保存されているのみです。逃避経路には諸説があり事実の特定は困難のようです。
雁行堤 万力林 竜王・近津とともに甲斐の水難所でした。天正十一年の洪水は甲府城下まで達しました。武田氏は治水には力を注いでおり、植林をし伐採を禁止しました(万力林)。 雁行堤は、甲州流河防法で、天正十一年の大洪水の後、高さ5.45m 長さ約32mの3基が構築されました。現在二基が残っています。 雁行とは、信玄の軍(いくさ)の陣営に「雁行」の陣(1陣が敗れても、2陣、3陣と敵にあたることができる)から由来しています。
甲斐府中は何処
諸説ありますが、ただひとつ言えるのは、現在の「甲府」は、信玄の躑躅ヶ崎館を建立した際に「甲斐の府中(中心)」の意から甲府と命名した地名であり、律令制による府中とは異なることです。「甲斐国府」が置かれた場所として推定されているのは、
一、笛吹市春日居国府
一、笛吹市御坂町国衙
一、笛吹市一宮町国分・東原付近
又、二転説・三転説など、考古学的には確定できる実証がありません。古甲州道沿いの春日居国府には古代寺院の寺本古代寺院跡があり、遺構としての寺本心礎は古代からのメッセージを送られているようで圧巻です。また付近は、正東西南北の条里制地割が認められており、おそらく初期国府の所在地であったと推測されています。
甲斐の総社としては、春日居町の「甲斐奈神社」、一宮町の「甲斐奈神社」、甲府の「府中八幡宮」が推定されていますが確定は難しいようです。
一宮は笛吹市浅間神社 二宮は笛吹市御坂町美和神社 三宮は甲府市玉諸神社 四宮は総社とも推定されている春日居甲斐奈神社とされています。
甲斐の国と他国とを結んだ道は、九口で、江戸時代に徳川により甲州街道(武相口)が開かれ、十口となった。 そのすべての道の起点は、酒折宮であった。
萩原口の道筋の遷移
古甲州道 酒折-萩原口-大菩薩峠-小菅-檜原-府中
青梅街道 江戸初 酒折-萩原口-大菩薩峠-小菅-青梅-江戸
青梅街道 江戸中 酒折-萩原口-大菩薩峠-丹波山-青梅-江戸
青梅街道 明治 酒折-萩原口-柳沢峠-丹波山-青梅-江戸