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儀塩 謙信が宿敵信玄に塩を送った塩の道 下里瀬ーフスベー池原ー石坂ー浦川ー来馬 

電話でのガイド依頼はTEL.080-1160-8288 

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池原・石坂・来馬 塩の道  ← 燕岩(つばくろいわ)  天神道・葛葉峠 →

フスベは、姫川の左岸の崖をトラバースする道で、塩の道の最大の難所とも言われていました。現在も雪の影響などで、道が崩れることが頻繁にあり、通行止めになることがあります。塩の道の迂回路はあります。事前に小谷村観光連盟に確認していただくことをおすすめします。


せえの神 村や集落の境界や道の辻にあることが多い 道祖神信仰のひとつ

コースガイド

虫尾阿弥陀堂石仏群 / 下里瀬

虫尾阿弥陀堂石仏群 安産・母乳祈願のお堂
下里瀬 明治以降、「千国宿」に代わって、塩の道の荷継ぎ宿として繁栄した。
下里瀬より平倉城址跡方面
下里瀬薬師堂石仏群

車坂 / 三峰社

姫川の急流を避け、塩の道は、崖をトラバースするように高巻きにつけられていた。
下里瀬ー車坂ーフスベー池原
三峰社は、車坂を登りきった位置に祀れていた。
写真は、車坂より、平倉城址跡。

フスベ

眼下に姫川を臨む急斜面につけられた水平道は、牛を追いながらの通行に困難さを感じる。路傍に祀わられている石仏に自ずと手を合わせてしまう。当時の苦労を知るうえで、塩の道で歩いていただきたい道のひとつである。

池原集落 / 石仏群、棚田、諏訪神社

静かな山里集落。平倉山を背景に棚田が美しい。

石原集落

浦川の右岸(南側)の集落。塩の道は、浦川をさらに上流に登り、浦川橋にて渡る。

幸田文 文学碑/ 浦川

明治44年の稗田山(ひえだやま)の崩落の慰霊碑に、幸田文の一節が 刻まれ、受難者の鎮魂を祈願している。
日本三大崩落のひとつ「稗田山大崩落」の様子は、未だに上流の金谷橋より眼前に確認できる。浦川は、今でも土濁りが消えていない。

中浦(なこう)の大石 / 土石流の転石 / 帷子石 / 森岡社跡/ 六地蔵

中浦の大石、土石流の転石 明治44年の稗田山の崩落の際に発生した土石流により浦川より飛ばされてきた石
帷子石 戦国時代この地の城主平倉日向守十郎盛春や塩の道往来の旅人が濡れた帷子をこの石の上で乾かしたと云われている。

路傍観音様 / 来馬豆平諏訪社

路傍観音様 目の病気が治ると言い伝えのある観音様で、塩の道の旅人、村人が目を撫でたと云われる。
来馬豆平諏訪社 小谷村 村宝に指定されている「菊散檜垣双雀鏡を所有している。

来馬集落 / 常法寺

塩の道・千国街道の宿は13を数え、小谷三宿は、大網宿、来馬宿、千国宿であった。稗田山の崩壊により、来馬集落は埋まってしまったが、高台に建立されていた、諏訪社と常法寺は難を逃れた。参道の石段は長かったと伝えられるが、現在は、塩の道から境内まで、わずかな段数である。
常法寺 廃仏毀釈の際、中信地方では、廃寺とならなかった数少ない寺院である。所蔵する、県宝の銅像の阿弥陀如来・両脇待立像はで、鎌倉時代後半の作と言われ、善光寺式の阿弥陀三尊の様式である。境内には、多くの石仏が安置されている。

西方堂

戦国の世、本能寺の変の後、徳川家康と羽柴秀吉との和議が成立した。富山城主,佐々成政が、浜松の徳川家康に会い、和議の解消を迫るため、富山より、厳冬期の北アルプスを越えて、浜松へと出向いた。このことは、徳川家の「家中日記」に記載があり、事実である。ちなみにルートは、富山より、薬師岳北のザラ峠から黒部川へ下降し、針の木峠を越えて大町へと至った。「さらさら越え」と伝承される。結果は説得は失敗した。追随した家臣、松沢新助が凍傷のため大町に逗留していたが、富山へ帰る意向が強く息子と富山へと、塩の道を向かった。しかし、ここ来馬まで来ると歩けなくなりなくなり、地元の人たちが小屋を建て住まわせたが亡くなった。息子がその後松沢新助を名乗りこの地の住人となり、佐々成政から預かった名号軸を小屋に安置し西方堂と名付けたといわれる。
店舗写真

information塩の道インフィメーション

塩の道峠窯

〒399-9422
信州長野県北安曇郡小谷村栂池高原623
TEL.080-1160-8288

古道 塩の道 MAP


小谷道の駅にて販売