塩の道 糸魚川ー千国ー大町ー穂高ー松本^塩尻 30里 |
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古道 塩の道とは
塩の道とは、海または、川舟の終着から内陸地へと、塩が運ばれた道の通称である。松本〜糸魚川までの、塩の道は、途中の小谷村千国宿から名が由来し、千国街道と呼ばれている。「塩の道=千国街道」と解釈されるようになったのは、その道筋に、古道がそのままの姿を残す景色が残っているからと思われる。
なぜ古道が残ったか
「千国街道=塩の道」北部は、大断層、糸魚川ー静岡構造線に沿うように流れる姫川とともに、白馬佐野坂から糸魚川へと道が続いている。2014年11月の長野県神城断層地震は、記憶に新しい。姫川は白馬佐野坂親海(およみ)湿原より日本海へと注ぐ大河であるが、13/1000という急流であり、姫川とその支流が白馬連邦の水を集めることによって土石流、鉄砲水等災害が発生し、流域集落を苦しめてきた。古の知恵であろうか白馬村塩島から北は、姫川を渡ることはあっても、その道筋は、姫川沿いの道を避け山間部につけられていた。また、車社会へと変遷していくなかで、道は、大河に沿うように、トンネルを掘り、平坦に造られた。糸魚川から白馬へと南下する、国道148号線も姫川沿いにつけられ、「千国街道=塩の道」は生活道としての役割を終えた。このことが幸いにも、今の私たちに「古道」をその姿のままのこしていただけた大きな理由となった。
「千国街道=塩の道」は塩を運んだ以前からの歴史がある
縄文時代「翡翠の道」
平成6年、青森県三内丸山遺跡の発掘にて、信州「和田峠」の黒曜石と共に、「糸魚川」の翡翠が出土した。古代には、2か所の翡翠文化が確認されている。すなわち産地は、世界で2か所であった。ひとつは、メキシコ・グアテマラを中心とするオルメカ・マヤ・アステカ文明であり、もう一方は、糸魚川、姫川の支流の小滝川である。出雲大社の重要文化財、翡翠玉は、化学鑑定により、糸魚川産原石由来と証明されている。塩の道が翡翠の道と言われる由縁である。
神話の時代 大和朝廷「諏訪様入信の道」
越の国の「奴奈川姫(ぬながわひめ)」は、出雲の国の王である「大国主命(おおくにぬしのみこと)」と結婚し、「建御名方命(たてみなかたのみこと)」を授かった。大国主命は建御名方命を連れ出雲に帰った。このころ大和朝廷が権力を持ち、出雲と交渉し、国譲りがおこなわれた。しかし、建御名方命は、これに反し戦い敗れ、母の国、越から信州諏訪の地へと逃れた。この道が、塩の道であるとは言い難いが、塩の道沿いに諏訪へと進んだと想像できる。後に、大和朝廷と和解し、この地の祭神、諏訪様として祭わられた。御柱祭の前年に、信濃の国と越後(越の国)の境にある、小谷村戸土部落の神社(境の宮の小倉明神で交互)にて、諏訪明神の神威である「薙鎌の神事」がおこなわれる。建御名方命が母、奴奈川姫の越の国への思からの神事とも言われている。
おことわり 道は、目的地(終着)の名をつけて呼ばれることが多い、松本〜糸魚川の「塩の道」の呼称としても
「松本街道」「糸魚川街道」「仁科街道」「越後道」などがあるが、ここでは、「千国街道」として表記した。またその中でも使い方は下記に準じた。また、Goole MAPにおいて、スポットの色分けをした
千国街道 広義:松本〜糸魚川までの「塩の道」
千国街道 狭義:松本〜燕岩〜葛葉峠〜大網峠〜糸魚川
(次の千国古道に対しての呼称)
千国古道 燕岩〜地蔵峠〜御前山〜水保
西廻り 平岩〜大峰峠〜菅沼峠〜青海
仁科街道(奈良井川左岸 高松〜小柴〜南栗〜町神〜小俣〜今村〜岩垂〜本洗馬〜洗馬
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