深志城は、永生元年(1504)に築城され、文禄(1593〜1594)年間に建てられた五重六階の天守閣は日本最古のものです。四百余年戦国時代そのままの天守が保存されており、天守閣は国宝に指定されています。その黒い姿から「カラス城」とも呼ばれます。松本城が黒いのは、大坂城は黒で統一されていたことから、石川氏の秀吉への忠誠からと云われます。また、戦国末期、鉄砲戦意識し、漆黒の天守としたとも言われます。ちなみに関ヶ原の戦い以降は、姫路城で代表されるように白亜の天守が築造されました。
地名は松本城の南惣堀と女鳥羽川に挟まれた縄のように細い土手だったことに由来する。女鳥羽川は、松本城西側を北北東から、南南西に、ほぼ真っ直ぐ流れていたが、松本城の外堀として南下させてから西へと流れを変え、田川と合流させた。
女鳥羽川と田川の合流地点。犀川通船は、信州新町までの60qを焼く7時間かけて下った。江戸時代後期の天保3年(1832)。その後、善光寺平まで延長されたが、明治35年(1903) 篠ノ井線の開通により廃止された。
養老坂が通る老根田には、縄文時代の遺跡が、また、岡田、老根田、坂下には、古墳が発掘されている。。
真々部には、石仏が多い。
道標は折れ、寝かせて置かれている。「右 飛騨道」(野麦街道)「左 松本道」(塩の道)と刻む。
一日市場 糸魚川、飛騨、松本への道が交差することから、物流の豊富さから市が開かれた。江戸時代の初期においては、塩の売買は、大町村、一日市場、松本町の3ヶ所のみ許可されており、塩の道にて運ばれた塩も取引されていた。
栗尾道標 「南観世菩薩 従是左栗尾道 元禄二年建立」と刻む。年代が識別できる道標としては、塩の道付近では最古の道標。栗尾道とは、栗尾山満願寺への道 満願寺は、地獄がデーマのお寺?
写真は、満願寺屏風
承応3年(1654) 犀川から引水に成功し、矢原、細萱、穂高等を灌漑している。「塩の道」ではないが、柏矢駅から穂高神社までは、矢原堰沿いを歩く。
写真は、柏矢 道祖神
安曇野市穂高の本宮(里宮)のほか、上高地に奥宮、穂高岳山頂に嶺宮がある。
「追分」は、道の分岐の意で、古道分岐集落に付けられる「地名」で、古道を探していく上では、「沓掛」「塩尻」などと同様に重要な地名です。ここ安曇追分は、塩の道である、池田道と松川道の分岐にあたり、松と休み石が面影を残している。