川東道は、北国街道野尻宿より、針ノ木ー舟岳ー塩の入(ー御所之入)ー倉井ー浅野 と鳥居川の東を千曲川の立ヶ花渡しへ向かい、中野、小布施(六川/ろくがわ)へと向かう北国街道の裏道。川東は、鳥居川の東の意ではなく、千曲川の東から由来していると考えます。因みにかつて長野電鉄の長野-須坂-中野は川東線と言われていた。幕府管轄の北国街道は、佐渡の金など荷物輸送は宿場ごとの荷の引継ぎが必要で、時間と経費が嵩んだことか、裏道である川東道が歩かれた。文化2年(1805年)に北国街道の三宿が江戸道中奉行に川東道を用いた荷物輸送を禁じるように訴えた。訴訟は文化10年(1813年)までかかる長期訴訟となった。そのころ江戸住まいであった柏原宿出身の俳人小林一茶は江戸詰めの柏原宿のサポートを行い、故郷の大事のために一肌脱いだ。また小林一茶は、一茶社中の門弟との交流において川東道を頻繁に利用していた。現在の小布施町にあった六川村(ろくがわむら)は、越後(柏崎)椎谷藩にて、寛政4年(1792)農民一揆(天明義民事件)が勃発した際に、幕府の裁定により、越後内の5千石を信濃国高井郡六川村へ藩地替えが行われ、六川に信濃分5千石の陣屋が設けられた。六川村は、〔高井郡〕 奥山田村・中山田村(高山村)、中条村(松代藩預かり所と分け郷)・中子塚(ちゅうしづか)村・六川村・羽場村・清水村(小布施町)、北大熊村・草間村(中野市)〔水内郡〕 中之御所村(松代領と分け郷、中御所)、問御所村(問御所町)その後 越後椎谷より六川村の往来に川東道が盛んに利用されたことが今も遺る道標が物語っています。
主要な道筋 | 千曲川渡し | |
川東道 | 野尻-針ノ木-倉井-川谷-浅野-立ヶ花-草間-六川-陣屋道-須坂小河原 | 立ヶ花渡し |
川東道 | 倉井-赤塩-上今井-栗林-草間-六川 | 今井の渡し |
飯山道 | 野尻-針ノ木-柴津-永江-替佐-大俣-長嶺道-草間-六川 | 大俣の渡し |
GoopgleMAP 川東道 GPSを利用して歩けます。
写真は地図とリンクされています
善光寺と刻む道標
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川東道 野尻-針ノ木-倉井-川谷-浅野-立ヶ花-草間-六川
野尻宿~倉井
塩入馬頭観音道標
右善光寺 左六川 六川村は越後椎谷藩の飛地で現在は小布施町に含まれる。道標は現在信濃町博物館に保存 当時の位置は推定。
古道の面影土の道
川谷~浅野~立ヶ花渡し
大倉道標にて、川東道は谷街道(飯山街道)と交差する。
立ヶ花~六川陣屋
北国街道 須坂旭ヶ丘の辻に建つ
右 六川道 左おぶせと刻む
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川東道 倉井-赤塩-今井-栗林-草間-六川
倉井~赤塩~上今井~栗林~草間
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飯山道 針ノ木-柴津-永江-替佐-大俣-長嶺道-草津道-草間-六川
谷街道飯山道道標より永江-針ノ木-柏原-戸隠
谷街道にて替佐に向かい、大俣の渡しにて千曲川を渡る