北国街道 追分宿分去れ~善光寺 |
追分宿分去れ 小諸 田中 海野 |
上田 坂城 上戸倉 下戸倉 矢代 |
篠ノ井 丹波島 善光寺 |
吉田 新町 牟礼 平出追分 |
新町宿制定以前の道筋(旧道) |
牟礼-古間ー柏原ー関川 |
二俣ー二本木ー新井ー高田 |
高田ー木田新田ー今町(今町街道) |
北国街道 高田~出雲崎 |
高田ー稲田ー春日新田ー黒井ー鉢崎 |
鯨波ー柏崎ー宮川 |
椎谷ー石地ー出雲崎 |
松代街道 屋代ー布野の渡しー善光寺 |
屋代ー松代ー福島ー長沼ー平出追分 |
北国街道 中山道追分宿にて分岐し、善光寺を経て高田より天領出雲崎までの街道を記載しております。善光寺街道、北国脇街道とも呼ばれる街道である。佐渡から出雲崎に荷揚げされた金が江戸へと運ばれた道。
北国街道は、当初は、松代道/北国東往還と言われ,矢代宿から千曲川右岸を福島宿まで進み、「市野渡し」にて、千曲川を和渡り、谷街道/飯山街道に合流し、善光寺へ向かう道と越後へ向かう北国街道に分岐していた。慶長16年(1611)北国街道に善光寺宿、丹波島宿、矢代宿が開かれ、千曲川を「矢代の渡し」にて渡り、丹波島宿と善光寺宿の間に「犀川の渡し」が置かれた。そして善光寺へと向かう道の主流は、松代道から犀川を渡る道へと変た。千曲川を犀川は大水のたびに川瀬が変わり、それに応じて渡る位置が変わり、「丹波島の渡し」「市村の渡し」「綱島の渡し」が使われた。明治維新までの260年間犀川の渡しは、街道の往来を支えた。
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北国街道
追分宿分去れ~小諸~田中~海野
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上田~坂城~上戸倉~下戸倉~矢代
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篠ノ井~丹波島~善光寺~新町
右京いせ道 左江戸街道の道標が立っていた。
篠ノ井追分宿の碑が建てられているが、篠ノ井は宿場ではない。
北国街道沿いの大仏接待所(手前左)。大仏前を通って江戸へ向かう、加賀侯の参勤交代の行列
犀川は大水のたびに川瀬が変わり、それに応じて渡る位置が変わり、「丹波島の渡し」「市村の渡し」「綱島の渡し」が使われた。明治維新までの260年間犀川の渡しは、街道の往来を支えた。
建久年間の創建で源頼朝を開基とし頼朝が善光寺へ参拝の折、にわかに紫の雲がたなびき、一光三尊の阿弥陀如来が影現し、頼朝に直接十遍のお念仏をお授け頼朝は当地を聖地と定め、一宇を建立し、紫雲山頼朝院十念寺と名付けたと伝えられています
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吉田 新町 牟礼 平出追分
古来天井川であった大雨が降り増水する度に、天井川の土手は必ずどこかで決壊しており、北国街道の道筋にも影響していた。
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新町宿制定以前の道筋(北国街道旧道)
鎌倉時代には、親鸞、一遍、日蓮聖人等が通られ、戦国時代には上杉謙信が通られたという由緒ある古道の道筋で、吉田より稲積を経ていたと推定される。浅川が天井川であったこと、たびたび千曲川の氾濫の影響を受けたことで、北国街道は新町宿を貫ける道筋に変遷した。
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新町宿ができる前の北国街道(旧道)は、この2つの一里塚の間を通っていた。当時の一里塚が姿を留めているのは珍しい。
牟礼-古間ー柏原ー関川
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二俣ー二本木ー新井ー高田
新井道標 右善光寺
富倉街道との分岐点
本町七丁目交差点から宇賀魂神社境内に移設 北国街道追分は「北国街道」の終点ですが、佐渡の金銀を運ぶ街道として重要度が増し出雲崎まで延長され奥州道とも呼ばれていました。「加賀街道」の始点。
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高田ー木田新田ー今町(今町街道)
古来より関川(荒川)の河口部左岸には今町(現直江津)の湊が開かれ栄えていました。、北陸道は応化橋(おうげのはし)にて渡っていました。江戸時代になり、松平忠輝が高田城を築城し、北陸道を、高田城下を通過する道筋とするため応化橋は破棄され、その後明治になるまで架橋されることは許されなかった。今町へは木田新田三又路より向かう。今町湊は北前船の寄港地として高田への塩や砂糖・茶・塩魚・鉄・藍玉・瀬戸物などの物資の供給といった重要な湊であった。
おうげの橋(漢字表記 応化、往下、逢岐、王源など)、上杉謙信は、この橋に通行税を課していた。御館の乱(天正6年 1578年)でくずれ落ちた橋を修復されたが、松平忠輝の高田築城と共に壊され高田城下繁栄のため、渡し(上の渡舟場 下の渡舟場)のみとなった。今町湊は北前船をはじめとした大型船の荷下ろしし、今町街道は高田宿から信州へと物資の輸送に利用されていた。
上杉謙信が川中島の戦いにて、信濃善光寺の本尊を武田信玄から守るためここ善光寺に移して以来、「浜善光寺」「浜の善光寺」と呼ばれるようになった。本尊の流転については諸説ある。
越後国府は平安時代は頸城郡にあったことされるが、その具体的な所在地は不明。現在、五智にある国分寺は、上杉謙信によって永禄5年(1562年)に真言宗寺院として再興されたと伝えられていまる。
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稲田ー春日新田ー黒井
道標に旅人に行くな!の意で刻まれている言葉 さいみち 村なか 村道 山道(多い)作場
村なか、村道=村の住居地 山道=住人が山仕事に使う道 作場=田圃、畑などへ行く道 さいみち= 在(さい)の村々 これらの言葉は旅人に行くなと呼び掛けている
聖ヶ鼻から笠島方面の北国街道は断崖絶壁の斜面に沿い道筋がつけられていましたが、中越沖地震により崩落し廃道になっています
「右ハかみがた(上方)へ」頸城と刈羽の郡境にあり、桑名(飛地)・高田両藩の境界でもあった。佐渡金銀はここを経て高田藩に引きつがれた
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鯨波ー柏崎ー宮川
1274年(文永11)佐渡から赦免された日蓮上人が祀った。棟梁は4代目篠田宗吉、石工小林群鳳、彫刻は出雲崎の原篤三郎、脇野町の池山甚太郎、直江津の彫富、飾り金具は大久保の歌代左次兵衛の鋳造
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椎谷ー石地ー出雲崎
椎谷藩と北国街道 天明義民事件:8代藩主 著朝の頃に藩の財政が悪化し、農民に重税を掛けた事が百姓たちが騒動を起こし瀑布の裁定を仰ぎ、著朝は蟄居(ちっきょ閉門の上 自宅謹慎 )し新たにの三河国西尾藩の松平乗祐の三男彦弥(改名して堀直起)が藩主となり、越後内の5千石と信濃国高井郡六川(ろくがわむら)村が同高で領地替えが行われました。当時の六川村は、小布施町/六川、中子塚、清水、羽場 高山村/中山田、奥山田 中野市/草間、大熊 長野市/中御所、問御所が該当します。 椎谷藩からの往来は、北国街道、川東道が利用された。 椎谷宿↔野尻宿(北国街道分岐)川東道道標(左川東道)↔千曲川渡し↔六川村
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出雲崎には、牢屋と極刑執行所も設けられ、江戸幕府直轄の出雲崎代官所が、文化5年移転した時、一緒に罪人の処刑場もここへ移された。その処刑場跡。
獄門跡の脇の小川は、斬首した犯罪人の首を洗ったことから洗い川と呼ばれる。
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屋代ー福島ー布野の渡しー平出追分
松代の城下を貫けることから松代街道(松代道)と呼ばれ、、北国街道の東往還で北国街道東脇往還の名称もあります。北国街道の矢代宿分岐して雨宮宿→松代宿→川田宿→福島宿→長沼宿→神代宿を経由して牟礼宿にて北国街道に合流します。千曲川の「矢代の渡し」犀川の「犀川の渡し」が開かれる以前は、北国街道としての役割を担っていました。川田宿で谷街道、福島宿で大笹街道と分岐し、千曲川を「布野の渡し」にて長沼宿に渡りました。
北国西脇街道 稲荷山善光寺道標にて、松代道矢代宿へ向かう道が分岐する。
向テ左西寺尾村ヲ経テ長野市ニ至ル 向テ後方松代町ヲ経篠ノ井町・屋代町ニル 向テ右寺尾村ヲ経テ須坂及中野町ニ至ル
古道の道筋を遺す 2019年台風18号にて崖崩れがあり石仏が損傷、埋まってしまっている。
東ハ 北國 ゑちご 飯山 西ハ 善光寺 戸隠
地蔵尊を線刻