塩の道 「千国街道」ここでは、狭義の 松本~燕岩~葛葉峠~大網峠~糸魚川を紹介します。「千国古道」に対しての呼称です。
松本ー安曇野 | 梓川の渡しにより塩の道が3ルート |
穂高ー追分 | 追分にて高瀬川を渡る |
高瀬川左岸 | 北アルプスの眺望を楽しむ古道 |
大町ー仁科三湖 | 水とアルプスの風景を貫ける塩の道 |
姫川源流ー白馬 | 日本海まで姫川谷を往く塩の道 |
小谷 千国越え | 姫川を離れ栂池高原/千国を越える |
燕岩(つばくろ岩) | 千国街道と千国古道の分岐点 |
池原・石坂・来馬 | 姫川の左岸の崖をトラバースする道で、塩の道の最大の難所 |
天神道・葛葉峠 | 春、天神道はカタクリが咲き誇ります |
大網峠・白池 | 信越国境の峠を越える |
中山峠・糸魚川 | 松本からの風習が残る根知 |
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松本-安曇野 塩の道
松本-熊倉の渡し-安曇野
松本-飯田の渡し-安曇野
松本-長尾前の渡し-安曇野
一日市場 糸魚川、飛騨、松本への道が交差することから、物流の豊富さから市が開かれた。江戸時代の初期においては、塩の売買は、大町村、一日市場、松本町の3ヶ所のみ許可されており、塩の道にて運ばれた塩も取引されていた。
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安曇野-追分 塩の道
「追分」は、道の分岐の意で、古道分岐集落に付けられる「地名」で、古道を探していく上では、「沓掛」「塩尻」などと同様に重要な地名です。ここ安曇追分は、塩の道である、池田道と松川道の分岐にあたり、松と休み石が面影を残している。
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高瀬川左岸 塩の道
仁科明神 本殿、中門および釣屋は、寛永13年(1636)の造営で、江戸時代初期の建築。神明造の建築としては、唯一の国宝である。廃仏毀釈により、本堂は、池田の浄念寺へ、薬師如来像は、盛蓮寺へ移された。20年ごとの、式年遷宮の棟札が残され、一番古い棟札は、南北朝時代の永和2年(1376)である。620年間33枚保存されている。
中世「塩の道=千国街道」に、3か所の関所の記録が残る。保高(穂高)、大町、ここ丹生子(にゅうのみ)である。この地には、城址もあり、仁科氏の要衝であった。
滝の入道標「右 松崎瀧之入 左 大町」と刻む、瀧は「清音の滝」を指す。仁科氏居館跡 仁科氏が鎌倉時代まで、200年近く居館を構えていた場所。わずかだが、遺構をとどめ、近くには石仏群がある。
池田町美術館からの眺望 塩の道とは、重複していないところもありますが、古墳、遺蹟、石仏があり、眺望も素晴らしい道です。 Google MAP 古道 塩の道では 緑のマーカーで表示しています。
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大町-仁科三湖 塩の道
霊松寺 山門は、明治の廃仏毀釈によって廃寺となった松川村の同じ曹洞宗の観松院からの移築されたもの。霊松寺の安達達淳住職は廃仏毀釈にさからい、住職の知恵で廃寺となることを免れました。また、明治政府に太政官廃仏令法改正を促しました。 本堂天井の啼龍
塩の道ちょうじや(旧塩の道博物館)江戸時代の庄屋で塩問屋を営んだ平林家の屋敷を保存しながら、当時を紹介しています。館内には、牛方や歩荷の使用した道具、着衣、番頭箱などの生活道具を展示している。 流鏑馬会館を併設している。
大町庚申塔道標
庚申塔に道標を刻む。「右 善光寺街道」「左 越後道」昔は、道の名前は、目的地で呼んでいた。塩の道が、糸魚川では「松本街道」と言われていたことも同様です。
佐野坂 西国三十三観音
文政12年(1829)高遠石工作、言葉はいらない力作! 塩の道で、いちばん癒される古道です。個々の観音様を良く見ると、鼻、目、等が欠けています。決していたずらではなく、昔の風習で、病に侵されている部分を撫ぜて願掛けした余波です。
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姫川源流-白馬 塩の道
飯田城址 天文年間(1532-1555)、仁科氏の家臣、大日向佐渡守の居城で、弘治2年(1556)武田軍・山県昌景により落城し、近接する飯森城(一夜山城)をも落城させられた。「犬川」の由来は、攻め際の時に、水に飢えていた飯田城の犬がわざわざ水を飲みに川へ降りてきたことによる。
塩島城址は姫川を挟んで三方が断崖をなし、戦略的には、塩の道・千国街道を抑え、四ケ庄平(現白馬)を俯瞰(ふかん)する位置、塩島集落の塩の道は、枡形を呈している。専念寺の石仏群に、善光寺式阿弥陀三尊仏がある。
観音原 西国、坂東、秩父の百体観音と馬頭観音187体が方形に並び、脇を塩の道が通る。江戸時代末期の文化年間(1804~18)高遠石工の作
切久保諏訪神社 丑年と羊年(諏訪御柱祭の前年)に信越国境の戸土集落にて行われる薙鎌打ち神事の際、諏訪神社から奉持した薙鎌が境内の「お頭の木」に安置される。
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小谷 千国越え 塩の道
小谷村栂池高原を通る、古道 塩の道は、千国越えとも言われていました。千国から沓掛までの親坂は、荷(塩など)背に負う牛に気遣い、歩きやすいよう、石を敷き詰めた石畳の塩の道が残ります。牛が飲みやすいよう石舟に水を引水した、弘法の清水、牛方さんと牛とが宿泊した、牛方宿など、人と牛との関わり合いが想像できる道です。
「沓掛」という地名は、全国多い。使い終わった、わらじを木などに掛けた意で、「道の分岐」「あいだの宿」としての使われ方をしている。鎌倉時代まで多く使われ、その後同じ意で「追分」が使われるようになった。沓掛は古道が通っていた証でもある。
沓掛の大杉跡 高さ49m、目通り13mの大杉が、明治44~45年のケカチ(大凶作)で切り出された跡に祠が建っている。塩の道からは、沢越えに森の中に切株があった広間に注意しないと見逃してしまう。武田軍が平倉城を攻めた際に、この杉に登り、偵察したと伝わる。
鐘馗様 目がなれてくると、鐘馗様の像が浮かんでくる。まず目の位置を見つけてください。写真は積雪期に、雪を塗って撮影しました。
庚申信仰 十干十二支(じっかんとじゅうにし)による、60日に一度巡ってくる庚申(こうしん、又は、かのえ)の日に、夜を寝ずに身を慎んで過ごす庶民の信仰のこと。道教によると、人の体の中には、「三巳(さんし)」という虫がいて、庚申の日になると、天に昇り、天帝 にその人の罪過を告げ、それにより寿命が縮まってしまう。これを防ぐために一晩中起きていれば三巳が体から出られず、命も縮まらないと説いている。庚申塔は、60年に一度の庚申の年に建立される石仏である。単に「庚申塔」と字が彫ってあるものもあるが、青面金剛像(しょうめんこんごうぞう)を彫ったものが多く、邪鬼を踏みつけ、性の束ねた髪を鷲掴みにしている青面金剛が中央に立ち、神使である三猿、日待・月待の信仰を意味する日月や、朝までを表すにわとりなどが彫られている。
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燕岩(つばくろ岩)塩の道
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池原・石坂・来馬 塩の道
西方堂 戦国の世、本能寺の変の後、徳川家康と羽柴秀吉との和議が成立した。富山城主,佐々成政が、浜松の徳川家康に会い、和議の解消を迫るため、富山より、厳冬期の北アルプスを越えて、浜松へと出向いた。このことは、徳川家の「家中日記」に記載があり、事実である。ちなみにルートは、富山より、薬師岳北のザラ峠から黒部川へ下降し、針の木峠を越えて大町へと至った。「さらさら越え」と伝承される。結果は説得は失敗した。追随した家臣、松沢新助が凍傷のため大町に逗留していたが、富山へ帰る意向が強く息子と富山へと、塩の道を向かった。しかし、ここ来馬まで来ると歩けなくなりなくなり、地元の人たちが小屋を建て住まわせたが亡くなった。息子がその後松沢新助を名乗りこの地の住人となり、佐々成政から預かった名号軸を小屋に安置し西方堂と名付けたといわれる。
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石仏群は、姫川に面する河原の高台にあることから、平成8年12月の蒲原沢の土石流の大惨事において難を免れた。
近くに、日帰り温泉がある。
塩の道が、姫川の河原と接するのはこの付近のみである。
蒲原から葛葉峠は、桜並木からはじまり、ユキツバキの中を、つづら折登る。「ウルル、ウルリ」に手こずる峠でもある。(現在もいます)アブの一種で、清流 の渓谷や周辺の山に生息する。呼気や車の排気ガスに含まれる、二酸化炭素、温かいものに寄ってくる。車内へも大群で侵入することもあり、刺されるといたい。残念ながら、虫よけスプレーや蚊取り線香は効果がない。肌を露出しない服装をおすすめします。
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大網橋 大網橋が姫川に掛けられたことが、塩の道の主ルートが、千国古道から千国街道へと移行した大きな理由であった。
千国古道
糸魚川 - 根知 - 白池 - 角間池下道標 - アワガ峠 - 横川宿 - 地蔵峠 - 水保(糸魚川) - 山寺 - 戸土 - 鳥越峠 - 横川宿 - 地蔵峠
千国街道
糸魚川 - 根知 - 白池 - 角間池下道標 - 大網峠 -大網宿 - 大網橋 - 平岩
大網は、「おあみ」と呼称されているが、「うあみ」「おおあみ」とも。いずれも古代の峠の神の遥拝所である「拝み」に由来する説や、大網(古宮)諏訪神社は、建御名方命(後の諏訪様)の生誕地であると伝承があり、奴奈川姫がこの地に産屋を建てて周囲に大きな網を巡らしたので「大網」と云われるようになった説がある。
大網宿は、信越国境の地であったため、歴史上、軍事、塩の道の要所であった。牛方宿、歩荷宿、そして、塩を中継する荷継宿があり栄えていた。塩を貯蔵するための「塩倉」が当時は幾棟もあった。唯一残っていた塩倉は、小谷村千国の牛方宿横に移築され保存されている。塩倉は、塩の影響で、 鉄などの金属は、錆びてしまうことから、鉄釘が使用されていない。
川をどこで渡るか?どのような方法で?姫川に平岩にて大網橋が架けられたことで、小谷村燕岩までの道筋の主流は、姫川右岸の地蔵峠を越えるルートから左岸の葛葉峠へと主流が遷移した。
横川に架かっている吊り橋のように、両側の岩盤が頑強で、幅が狭いところに吊り橋が多いのは、増水時にも渡れる利点があることが理由である。
ウトウ 牛、人が歩くことにより、道の土が削れ、U字状に道が窪んだところ。大網峠直下(大網側)は、雪融けのころ、ブナの新緑と相まって見事な、澄み切った空間となる。
大網峠には、茶屋と歩荷宿があった。積雪期には、塩の道を往来する、歩荷、牛方に情報を与えていた。初夏には、オオイワカガミの大群落に花が咲き乱れる。
「諏訪の平」に、白池諏訪神社石祠が祀われている。諏訪、御柱祭の前年に行われる「薙鎌神事」は今は、近くの戸土集落の、境の宮と小倉明神にて、交互に行われているが、以前は、ここで行われたとも云われる。歴史上の、越後と信州の境である。
白池 水は澄み、見る位置、角度、光の加減などにより、湖面の色が変わる。特に、雪解け時は、コバルトブルーになる。水源は、池の西北の湖底から湧き出されている。池の東方向に、雨飾山、頚城の山並みがそびえ、湖面にその雄姿を映す。
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大江屋敷・百番供養塔 観音霊場巡礼供養塔のひとつ、(西国三十三観音、坂東三十三観音、秩父三十四観音)で、江戸時代には、これら霊場を巡拝(遍路)することが盛んになり、巡拝供養塔はその記念碑である。
根小屋城・栗山城・上城山城を総称して、「根知城」と呼ぶ。標高320mに位置し、本丸跡と、殿屋敷と称する郭跡を中心に郭跡17、削平地201、堀切16、堅堀15の大規模な山城である。築城年代は不明、永禄11年(1568)以降、謙信の書状に「信越国境の根知谷の警備を厳重にせよ}という指令がある。信玄に追われ、川中島の合戦の発端をつくった村上義清は、謙信から永禄8年(1565)に根知城主に任じられた。
中山橋石仏群 塩の道、カンパ地蔵付近にあったものを、明治になり、姫川沿いに道がつけられ、ここに移動した。庚申塔、善光寺式阿弥陀三尊仏などの石仏がある。
翡翠海岸 新潟県糸魚川市から富山県朝日町までの海岸をヒスイ海岸と呼ぶ。↓のピークは、「勝山城址」である。天正13年(1585)上杉景勝、直江兼続、羽柴秀吉、石田三成が「落水盟約」を交わした地である