西廻り塩の道は、平岩にて、「塩の道・千国街道」と分岐し、姫川左岸を須沢まで至る。険しく整備も十分でなく、牛も使えず歩荷が主流で、「虫川歩荷」という言葉がのこる。西廻り塩の道は、葛葉峠を下り、平岩集落にて、大網橋を渡る、塩の道・千国街道と分岐し、平岩集落の上部を、姫川と大所川を巻くようにつけられ、大所集落へと続いていた。大所集落からは、大所川を吊橋で渡り、山の坊へと至り虫川関所を通り、青海須沢村内を貫流している、北前船の荷を陸揚げするための小舟の水路であった谷内川(八千代川)へと続いた塩の道である。
大峰峠・夏中 塩の道
吊り橋は、平成7年7月の梅雨前線豪雨災害にて崩壊し、復興の予定はない。
西廻り・塩の道は、山之坊から大所川へと下った。川岸には、「荷付場」 という地名がのこる。須沢から荷を背負ってきた、歩荷は、ここで、信州の歩荷へ、荷を引き継いだ。
大峰峠 標高667m、大峰峠付近には、早春に水芭蕉、夏にササユリが咲く。
地蔵様 天保13年(1842)、糸魚川の原山地蔵の兄弟であったが、信州へ行くことになった。しかし、大峰峠で、急に重くなり、動けなくなったことから、 ここに鎮座したと伝わる。
翡翠と塩の道
古代には、2つの翡翠文化圏が確認されている。ひとつは、メキシコ・グアテマラを中心とする、オルメカ・マヤ・アステカの各文化であり、もうひとつが、糸魚川・姫川の支流、小滝川が起点となって、日本各地へと翡翠が運ばれた文化である。明星山の麓、小滝川にて産出された翡翠は、加工され縄文・弥生・古墳時代に、大珠・勾玉・丸玉・丸輪が作られ、運ばれた。翡翠加工工房の遺跡も出土している。出雲大社の重要文化財に指定されている勾玉は、化学成分鑑定より、この地の翡翠と証明され、「古事記」にある出雲の国、大国主命と越の国、奴奈川姫の求婚神話を裏付けている。「塩の道」が「翡翠の道」と云われる所以でもある。
菅沼峠・須沢 塩の道
西廻り塩の道は、藪がひどく、道の整備も悪く、当時は、姫川右岸の、塩の道・千国街道に比べ、悪路であったと云われています。現在は、車道がほとんどのルートであるため、車を使用しての散策が、積雪期以外ができます。
謙信・信玄像 「菅沼峠にある。越後と信州でどちらが、謙信、信玄かで見解が分かれる。大きい石仏が越後側に鎮座しており、そちらが謙信で問題はないようである。塩の道由来の故事、「儀塩」からも謙信に一票!
塩の道 岡ー菅沼峠 ほとんど舗装された林道を歩く。土の道は、菅沼峠の南斜面にわずかに残るのみ。
虫川関所 永禄10年(1567)には、口留番所として荷役の取締りを行っており、江戸時代には、山口関所と同様に塩の道の関所となった。虫川は、冬は無人となる集落。冬期は大谷内より南は通行止めとなる。