塩の道 千国街道

塩の道 「千国街道」ここでは、狭義の 松本~燕岩~葛葉峠~大網峠~糸魚川を紹介します。「千国古道」に対しての呼称です。

松本ー安曇野梓川の渡しにより塩の道が3ルート
穂高ー追分追分にて高瀬川を渡る
高瀬川左岸北アルプスの眺望を楽しむ古道
大町ー仁科三湖水とアルプスの風景を貫ける塩の道
姫川源流ー白馬日本海まで姫川谷を往く塩の道
小谷 千国越え姫川を離れ栂池高原/千国を越える
燕岩(つばくろ岩)千国街道と千国古道の分岐点
池原・石坂・来馬姫川の左岸の崖をトラバースする道で、塩の道の最大の難所
天神道・葛葉峠春、天神道はカタクリが咲き誇ります
大網峠・白池信越国境の峠を越える
中山峠・糸魚川松本からの風習が残る根知

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松本-安曇野 塩の道

梓川(犀川)の渡しが3ヶ所あり、それにともない塩の道は、3ルートあります。深志(現松本)から、豊科へは、荒井の大銀杏を目指し、歩いたと言われています。
 A 松本駅 – 養老坂 – 熊倉の渡し – 豊科駅
 B 松本駅 – 新橋 - 飯田の渡し - 町村 - 豊科駅
 C 松本駅 - 新橋 - 長尾前の渡し - 真々部 - 豊科駅

松本-熊倉の渡し-安曇野

謙信から送られた「塩」がここ「牛つなぎ石」にたどりついたと伝承されている。市の守り神である「市神様」としてまつわられている。
飴市 松本、豊科、池田、大町で、正月から2月に行われている年中行事。「市神様」をまつる。 塩市が飴市になった。
深志城は、永生元年(1504)に築城され、文禄(1593~1594)年間に建てられた五重六階の天守閣は日本最古のもので国宝に指定されています。松本城が黒いのは、大坂城は黒で統一されていたことから、石川氏の秀吉への忠誠からと云われます。また、戦国末期、鉄砲戦意識し、漆黒の天守としたとも言われます。
縄手通り / 女鳥羽川 地名は松本城の南惣堀と女鳥羽川に挟まれた縄のように細い土手だったことに由来する。女鳥羽川は、松本城西側を北北東から、南南西に、ほぼ真っ直ぐ流れていたが、松本城の外堀として南下させてから西へと流れを変え、田川と合流させた。
源智の井戸 天保14年(1843)に刊行された「善光寺道名所図会」に、信濃国第一の名水とする旨が記載されている。
白板の船着き場跡 女鳥羽川と田川の合流地点。犀川通船は、信州新町までの60㎞を焼く7時間かけて下った。江戸時代後期の天保3年(1832)。その後、善光寺平まで延長されたが、明治35年(1903) 篠ノ井線の開通により廃止された。
謙信から送られた塩は、塩倉の海福寺に溜めておいたといわれる。塩倉とは、塩の貯蔵のために、錆びるため鉄くぎを使用せずに建てたくらで、この地の地名となっている。小谷村栂池高原の牛方宿に、従来、塩の道、大網部落にあった塩倉を移設復元してあります。
塩倉池 儀塩の真偽については諸説あるが、信玄が駿州の今川氏、相州の北条と対立し「南塩」のルートがたたれた。一方、川中島で5回の戦いをした謙信は「争うべきは弓箭にあり、米、塩にあらず」として「信州の民百姓すすんで糸魚川に「北塩」えお取りにくるように」と命じたといわれる。
養老坂 老根田には、縄文時代の遺跡が、また、岡田、老根田、坂下には、古墳が発掘されている
泣坂夫婦惜別の岩 貞享3年(1686)、加助一族が捕らわれ入牢する道すがら、妻お民と別れを惜しんだといわれる、夫婦惜別の岩と石仏群がある。
熊倉の渡し 塩の道・千国街道で最大の渡し場であり、渡しは、昭和30年代までおこなわれていた。
仏法寺 参道の枝垂桜の開花は、4月10日前後、百体観音(天保4年)は、見事な出来栄えである。
荒井の大銀杏 松本-穂高間の旅人の道しるべでもあった。

松本-飯田の渡し-安曇野

駒町馬頭観音 貞享騒動(じょうきょうそうどう)とは、(貞享3年)に信濃国松本藩で発生した百姓一揆である。中心となった多田加助の名前から、加助騒動とも呼ばれる。

拾ヶ堰(じっかせぎ)文化13年の完成。水利権の関係で、梓川からは、取水ができず、奈良井川より取水し、梓川の地下をサイフォン原理にて水を通している。また、拾ヶ堰は、全長約15㎞、勾配5㎝/1㎞というわずかな勾配の土木技術で完成させている。江戸時代の技術力に驚きを感じる。
現在の梓川の地下を通すサイホンは、平成10年に改修した。
川合鶴宮八幡神社の「川合」とは、梓川と奈良井川の合流点を意味する。塩の道の飯田の渡しの正確な場所はわからなかった。
飯田の渡し付近
町村石仏群

松本-長尾前の渡し-安曇野

青島道標 癒される地蔵様の下に「右 さ?」「左 塩?」と刻む。台座のコンクリートで埋もれ、読めず。
長尾前の渡し 梓橋が昭和6年に架けられるまで、舟渡しが行われていた。写真は長尾渡し跡
真々部石仏
立石道標 寝かせて置かれている。「右 飛騨道」(野麦街道)「左 松本道」(塩の道)と刻む。

一日市場 糸魚川、飛騨、松本への道が交差することから、物流の豊富さから市が開かれた。江戸時代の初期においては、塩の売買は、大町村、一日市場、松本町の3ヶ所のみ許可されており、塩の道にて運ばれた塩も取引されていた。

栗尾道標「南観世菩薩 従是左栗尾道 元禄二年建立」と刻む。年代が識別できる道標としては、塩の道付近では最古の道標。栗尾道とは、栗尾山満願寺への道

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安曇野-追分 塩の道

下柏原 石仏
下柏原 石仏
柏矢 道祖神
養老坂矢原堰 承応3年 犀川から引水に成功し、矢原、細萱、穂高等を灌漑している。「塩の道」ではないが、柏矢駅から穂高神社までは、矢原堰沿いを歩く。
庚申塔
穂高神社 安曇野市穂高の本宮(里宮)のほか、上高地に奥宮、穂高岳山頂に嶺宮がある。
安曇追分

「追分」は、道の分岐の意で、古道分岐集落に付けられる「地名」で、古道を探していく上では、「沓掛」「塩尻」などと同様に重要な地名です。ここ安曇追分は、塩の道である、池田道と松川道の分岐にあたり、松と休み石が面影を残している。

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高瀬川左岸 塩の道

塩の道は、安曇追分より、高瀬川を高瀬橋にて十日市場へ渡った。北アルプス、後立山連邦を西に眺めながらのアルプス展望の塩の道は、「池田道」とも呼ばれていました。
高瀬川は、槍ヶ岳に源を発し、北アルプスと大峰高原に挟まれた安曇盆地を南流し、明科付近の押野崎にて、同じく槍ヶ岳を源とする梓川と合流する。そして犀川と名を変え、善光寺平へと下る。
十日市場には、番小屋があった。
内鎌 高瀬川の氾濫に備え、集落の西側に石堤が作られた。 川会神社 高瀬川の氾濫で度々流出している。現在の建物は天命3年(1783)のもの。
宇佐八幡宮
十王堂 池田は、「枡形」の宿場形成が今も残る。西には、高瀬川氾濫に備えた石堤が10ヶ所あった。
宿場の中ほどに、市神様としての、牛つなぎ石を祀る。
浄念寺 大永元年(1521)仁科盛政の創建。
大峰高原 七色大カエデ

仁科明神 本殿、中門および釣屋は、寛永13年(1636)の造営で、江戸時代初期の建築。神明造の建築としては、唯一の国宝である。廃仏毀釈により、本堂は、池田の浄念寺へ、薬師如来像は、盛蓮寺へ移された。20年ごとの、式年遷宮の棟札が残され、一番古い棟札は、南北朝時代の永和2年(1376)である。620年間33枚保存されている。

盛蓮寺 桁行3間、梁間3間の寄棟造。鎌倉時代の様式を残しながら室町中期の特徴を持つ。国の重要文化財に指定されている。
佐々屋敷神社

中世「塩の道=千国街道」に、3か所の関所の記録が残る。保高(穂高)、大町、ここ丹生子(にゅうのみ)である。この地には、城址もあり、仁科氏の要衝であった。
滝の入道標「右 松崎瀧之入 左 大町」と刻む、瀧は「清音の滝」を指す。仁科氏居館跡 仁科氏が鎌倉時代まで、200年近く居館を構えていた場所。わずかだが、遺構をとどめ、近くには石仏群がある。

池田町美術館からの眺望 塩の道とは、重複していないところもありますが、古墳、遺蹟、石仏があり、眺望も素晴らしい道です。 Google MAP 古道 塩の道では 緑のマーカーで表示しています。

身代わり地蔵尊
滝沢道祖神
滝沢集落
中島石仏群
鬼の釜古墳

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大町-仁科三湖 塩の道

塩は、糸魚川から大町まで通常6日かけて運ばれた。「一日追い」と言われた、最速の歩荷では、生魚・塩魚を運んだが、糸魚川を午後4時に出て翌夕方に大町には着いた。松本へは翌々朝に運ばれていた。大町市借馬 早春、塩の道沿いの水田に、北アルプスが影を映す

霊松寺 山門は、明治の廃仏毀釈によって廃寺となった松川村の同じ曹洞宗の観松院からの移築されたもの。霊松寺の安達達淳住職は廃仏毀釈にさからい、住職の知恵で廃寺となることを免れました。また、明治政府に太政官廃仏令法改正を促しました。          本堂天井の啼龍

塩の道ちょうじや(旧塩の道博物館)江戸時代の庄屋で塩問屋を営んだ平林家の屋敷を保存しながら、当時を紹介しています。館内には、牛方や歩荷の使用した道具、着衣、番頭箱などの生活道具を展示している。 流鏑馬会館を併設している。

大黒天

大町庚申塔道標

庚申塔に道標を刻む。「右 善光寺街道」「左 越後道」昔は、道の名前は、目的地で呼んでいた。塩の道が、糸魚川では「松本街道」と言われていたことも同様です。

若一(にゃくいち)王子神社 国の重要文化財の本殿は、安土桃山時代の様式をとどめる。弘治2年(1556)年建立。県宝、三重塔や観音堂が残り、神仏習合の影響を残す。
静御前の従者の墓 静御前が源義経を追い大町に来た言い伝えがある。美麻の大塩にも「静の桜」がある。
三橋堂 農具川に架かっていた3本の橋に由来する。
森城址 仁科氏の城で、木崎湖の地形を利用して、建てられている。後に小笠原氏が城主となった。
阿部神社 仁科神社とともに、森城址にある。阿部氏は大和朝廷と関係が深く、仁科氏の祖先とも言われている。
西海ノ口 茅葺屋根のお堂には、庚申塔などの石仏がある。塩の道を歩くにあたり、こういった情景が楽しみである。上諏訪神社 所有する「銅戈(どうか)」は弥生時代後期に作られたものがこの地へ伝来したと伝えられている。中部地方以北ではめずらしく、今のところ発見された銅戈の北限。
海口庵 海の口村の百体観音がここに集められている。
二十三夜塔には、勢至菩薩が彫られている。
大糸線海ノ口駅と木崎湖湖畔との間から発掘された縄文時代後期、晩期の遺跡。翡翠原石がここに運ばれ、丸玉などへの加工がおこなわれていた。姫川支流の小滝川の原石が内陸部のこの地で加工されていた遺跡の発見の意義は大きい。
仁科三湖 木崎湖
仁科三湖 中綱湖
仁科湖 青木湖

佐野坂 西国三十三観音

文政12年(1829)高遠石工作、言葉はいらない力作! 塩の道で、いちばん癒される古道です。個々の観音様を良く見ると、鼻、目、等が欠けています。決していたずらではなく、昔の風習で、病に侵されている部分を撫ぜて願掛けした余波です。

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姫川源流-白馬 塩の道

白馬村、小谷村には、塩の道からは逸れていますが、古くからの人々の生活がある里山集落が、多く点在しています。里山の祭り、民話、言い伝えなども、塩の道により、入ってきたことがらも多いようです。したがって「風土」=「根づいていた風習に風が吹き新たな風習として生まれていく」が育っていたようです。
親海湿原・姫川源流ともに、湿性植物の宝庫、姫川は、平成12年13年の一級河川における水質調査では、日本一となった清流
佐野坂十二社
二僧塚 「信州に三佐野あり」ここ白馬、高井、更級である。いずれも、西行法師の伝説を持つ。西行の撰集抄には「信州佐野二僧事」を記している。石仏は、寛政8年(1796)高遠の石工の作
ガクモ原 / 沢渡沖 「ガクモ」とは湿性地に生育する、ツルコケモモ(ヤマドリゼンマイの説もあり)の意。泥炭構造になっていたとのことだが、今は水田の整備により湿原の面影はない。沢度沖と地名が語るように、湖であったことも想定できる。
東徳寺 / 十王堂 東徳寺は廃寺となった。しかし、地元の方々により守らた。不動明王、庚申塔などの石仏がある。十王堂の石仏に、「御前山像」がある。糸魚川/塩の道・千国古道より、塩とともに運ばれてきた
道祖神 寛政3年(1791) 双体神祝言像と呼ばれる。
貞麟寺 弘治2年建立 糸桜樹齢500年 カタクリが群生する。
犬川端庚申塔

飯田城址 天文年間(1532-1555)、仁科氏の家臣、大日向佐渡守の居城で、弘治2年(1556)武田軍・山県昌景により落城し、近接する飯森城(一夜山城)をも落城させられた。「犬川」の由来は、攻め際の時に、水に飢えていた飯田城の犬がわざわざ水を飲みに川へ降りてきたことによる。

長谷寺(ちょうこくじ
牛方供養塔 牛方さんの供養塔は珍しい。牛方とは牛にて荷を運んだ人です。1頭の牛に塩を2俵つけた。一人前は牛6頭を追った。
空峠庚申塔石仏群
飯森道標 飯森神社の脇に立つ。「右 ゑちご 左 やま道」と刻む。古道塩の道の存在を証明するうえで重要な道標
姫川の支流松川、白馬大橋より白馬三山。
薬師堂石仏群 敷地内に足湯施設(無料)あり。

専念寺
、善光寺式阿弥陀三尊仏

塩島城址は姫川を挟んで三方が断崖をなし、戦略的には、塩の道・千国街道を抑え、四ケ庄平(現白馬)を俯瞰(ふかん)する位置、塩島集落の塩の道は、枡形を呈している。専念寺の石仏群に、善光寺式阿弥陀三尊仏がある。

伝法山 徒然桜
観音原

観音原 西国、坂東、秩父の百体観音と馬頭観音187体が方形に並び、脇を塩の道が通る。江戸時代末期の文化年間(1804~18)高遠石工の作

切久保庚申塔 天和3年8月
七道の神事

切久保諏訪神社 丑年と羊年(諏訪御柱祭の前年)に信越国境の戸土集落にて行われる薙鎌打ち神事の際、諏訪神社から奉持した薙鎌が境内の「お頭の木」に安置される。

おかる穴 おかるが霧降宮(切久保諏訪神社)の七面道をかぶり、姑を脅かしたが面が取れなくなり、隠れた穴との言い伝えがある。楠川に架かる瀬田橋は、川幅が狭く、両岸の岩盤が強い場所に吊り橋として架けられていた。
塩の道 落倉道標
落倉道標「右 ゑちご」「左 やま道」と刻む。山道とは旅人へ「そちらは行くなよ」と警告の意として多くの道標に刻まれる案内。同意語に「作場」「村中」「村道」などがある。
白馬 塩の道 古道
楠川瀬田橋から落倉までの道は、白馬村で唯一、古道当時の雰囲気がのこる、古道塩の道です

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小谷 千国越え 塩の道

小谷村栂池高原を通る、古道 塩の道は、千国越えとも言われていました。千国から沓掛までの親坂は、荷(塩など)背に負う牛に気遣い、歩きやすいよう、石を敷き詰めた石畳の塩の道が残ります。牛が飲みやすいよう石舟に水を引水した、弘法の清水、牛方さんと牛とが宿泊した、牛方宿など、人と牛との関わり合いが想像できる道です。

松沢薬師堂石仏群
前山百体観音 西国三十三観音、坂東三十三観音、秩父三十四観音を合わせて百体とするが、松沢に分散している
古道 塩の道、前山百体観音から白馬三山の眺望
沓掛の古道

「沓掛」という地名は、全国多い。使い終わった、わらじを木などに掛けた意で、「道の分岐」「あいだの宿」としての使われ方をしている。鎌倉時代まで多く使われ、その後同じ意で「追分」が使われるようになった。沓掛は古道が通っていた証でもある。
沓掛の大杉跡 高さ49m、目通り13mの大杉が、明治44~45年のケカチ(大凶作)で切り出された跡に祠が建っている。塩の道からは、沢越えに森の中に切株があった広間に注意しないと見逃してしまう。武田軍が平倉城を攻めた際に、この杉に登り、偵察したと伝わる。

塩倉 塩の道大網集落に遺されていた、「塩倉」を、千国、沓掛に移築し保存されている。塩分による鉄錆びを避けるためにくぎなど、金属はいっさい使われていない構造。松本にも、「塩倉」という地名が、塩の道に残る。
牛方宿 牛方さんが牛と寝泊りした宿。牛が荷(塩)運びの主役であった、塩の道古道沿いに数軒あったが、現存する唯一の建造物である。
19世紀初期の建物で、当時の民家の建築様式を、柱の太さや本数、仕組みなどに残しており、きわめて質の高い建物である。
弘法の清水 上段の石舟は人用、下段の石舟は牛用の2漕の石舟に引水されている。上方に、安永3年(1774)に安置された弘法大師像がある。
親坂 塩の道では、難所だった。牛への気遣いが感じられる場所である。重荷を背負った牛が歩きやすいように敷かれた石が石畳として残る。東海道の箱根の石畳のような派手さはないが当時が偲ばれる。
錦岩 雨に濡れると石の色が青く変わる。塩の道を往来する者にとっては、大岩、大木、山肌の崩れなどの、市、距離の目安のひとつとなっていた。
牛つなぎ石 親坂に残る牛つなぎ石には、手綱を巻くタイプと穴に通すタイプがある。ここは穴タイプである。穴の大きさは、子供の顔と比べてください。
親坂より、千国宿(集落)
親坂馬頭観音塚 親沢を渡る手前に馬頭観音が多数並ぶ、馬の墓場でもあった。平成7年の豪雨災害にてほとんどが流出したが、地域の人たちが探し、再びここに並べられた。
千国集落初冠雪、道祖神祭り
「千国」は、現在は小谷村の地区名であるが、鎌倉時代には、今の白馬村、小谷村全域を指していた。千国の庄は、皇室関係の領地で、文治2年(1186)に「六条院千国庄」との記述がある。慶長年代(1596~1615)より松本藩の千国番所が置かれた。運上金の徴収、人改めを行っていた。
千国番所跡
千国諏訪神社
奇祭 ささら祭り
建長寺 塩の道沿いに西国三十三観音が並ぶ。
大別当 田園の中を深呼吸しながら歩く道である
福寿草群落
大別当石仏
大別当石仏

鐘馗様 目がなれてくると、鐘馗様の像が浮かんでくる。まず目の位置を見つけてください。写真は積雪期に、雪を塗って撮影しました。

石仏群
坪山庚申塔 彫が深く見事な出来栄えである。

庚申信仰 十干十二支(じっかんとじゅうにし)による、60日に一度巡ってくる庚申(こうしん、又は、かのえ)の日に、夜を寝ずに身を慎んで過ごす庶民の信仰のこと。道教によると、人の体の中には、「三巳(さんし)」という虫がいて、庚申の日になると、天に昇り、天帝 にその人の罪過を告げ、それにより寿命が縮まってしまう。これを防ぐために一晩中起きていれば三巳が体から出られず、命も縮まらないと説いている。庚申塔は、60年に一度の庚申の年に建立される石仏である。単に「庚申塔」と字が彫ってあるものもあるが、青面金剛像(しょうめんこんごうぞう)を彫ったものが多く、邪鬼を踏みつけ、性の束ねた髪を鷲掴みにしている青面金剛が中央に立ち、神使である三猿、日待・月待の信仰を意味する日月や、朝までを表すにわとりなどが彫られている。

二十三夜塔 月待ち供養の信仰で主として、前述の庚申信仰が男性、月待ち供養は女性の集まりで、この付近は、三夜坂と呼ばれ、幅が広く、石畳になっている。

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燕岩(つばくろ岩)塩の道

塩の道は、燕岩が、千国街道(江戸時代以降)と千国古道との分岐点になる。現在は、小谷村役場から1㎞ほど糸魚川方面へ向かった場所です。千国街道は、姫川左岸を平岩まで進み、大網橋にて、姫川を渡り、大網峠を越えて糸魚川へと向かう。千国古道は、ここで、姫川を宮本橋とにて渡り、姫川右岸を進み、大峯峠、地蔵峠、長者平、横川集落と進み、当時は、主にアワガ峠(現在は荒廃して歩けない)を越え、角間池下道標にて、千国街道と合流した。今整備されている道は、横川集落より、鳥越峠を越え、小谷村戸土集落より糸魚川へ向かう。
宮本橋が架かる姫川は、以前は、河床が深く、吊り橋が
架けられていた。吊り橋の台座は、左岸は燕岩が利用され、
右岸は今も畑にのこる岩であった。庚申塔が祀われている。
信越国境付近の3峠  長者平から望む
千国街道
燕 岩-葛葉峠-大網峠-角間池下道標-中山峠-糸魚川
千国古道
燕 岩-地蔵峠-横川-アワガ峠-角間池下道標にて合流
燕 岩-地蔵峠-横川-鳥越峠-戸土-山寺-水保
アワガ峠より、戸土集落へと向かう道もあった。

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池原・石坂・来馬 塩の道

フスベは、姫川の左岸の崖をトラバースする道で、塩の道の最大の難所とも言われていました。現在も雪の影響などで、道が崩れることが頻繁にあり、通行止めになることがあります。塩の道の迂回路はあります。事前に小谷村観光連盟に確認していただくことをおすすめします。
虫尾阿弥陀堂石仏群
下里瀬より平倉城址跡方面
下里瀬薬師堂石仏群
車坂より、平倉城址跡
三峰社 車坂を登りきった位置に祀れていた。
姫川の急流を避け、塩の道は、崖をトラバースするように高巻きにつけられていた。
下里瀬ー車坂ーフスベー池原
フスベ 眼下に姫川を臨む急斜面につけられた水平道は、牛を追いながらの通行に困難さを感じる
路傍に祀わられている石仏に自ずと手を合わせてしまう。当時の苦労を感じる。
池原集落
平倉山を背景に棚田が美しい。
石原集落 浦川の右岸(南側)の集落。塩の道は、浦川をさらに上流に登り、浦川橋にて渡る
石仏群
幸田文 文学碑 明治44年の稗田山(ひえだやま)の崩落の慰霊碑に、幸田文の一節が 刻まれ、受難者の鎮魂を祈願している。
浦川 日本三大崩落のひとつ「稗田山大崩落」の様子は、未だに上流の金谷橋より眼前に確認できる。浦川は、今でも土濁りが消えていない。 
中浦の大石 土石流の転石 明治44年の稗田山の崩落の際に発生した土石流により浦川より飛ばされてきた石
帷子石 戦国時代この地の城主平倉日向守十郎盛春や塩の道往来の旅人が濡れた帷子をこの石の上で乾かしたと云われている。
六地蔵
路傍観音様 目の病気が治ると言い伝えのある観音様で、塩の道の旅人、村人が目を撫でたと云われる。
来馬豆平諏訪社 小谷村村宝に指定されている「菊散檜垣双雀鏡を所有している。

来馬集落 塩の道・千国街道の宿は13を数え、小谷三宿は、大網宿、来馬宿、千国宿であった。

常法寺 廃仏毀釈の際、中信地方では、廃寺とならなかった数少ない寺院である。所蔵する、県宝の銅像の阿弥陀如来・両脇待立像はで、鎌倉時代後半の作と言われ、善光寺式の阿弥陀三尊の様式である。境内には、多くの石仏が安置されている。
常法時石仏群 稗田山の崩壊により、来馬集落は埋まってしまったが、高台に建立されていた、諏訪社と常法寺は難を逃れた。参道の石段は長かったと伝えられるが、現在は、塩の道から境内まで、わずかな段数である。

西方堂 戦国の世、本能寺の変の後、徳川家康と羽柴秀吉との和議が成立した。富山城主,佐々成政が、浜松の徳川家康に会い、和議の解消を迫るため、富山より、厳冬期の北アルプスを越えて、浜松へと出向いた。このことは、徳川家の「家中日記」に記載があり、事実である。ちなみにルートは、富山より、薬師岳北のザラ峠から黒部川へ下降し、針の木峠を越えて大町へと至った。「さらさら越え」と伝承される。結果は説得は失敗した。追随した家臣、松沢新助が凍傷のため大町に逗留していたが、富山へ帰る意向が強く息子と富山へと、塩の道を向かった。しかし、ここ来馬まで来ると歩けなくなりなくなり、地元の人たちが小屋を建て住まわせたが亡くなった。息子がその後松沢新助を名乗りこの地の住人となり、佐々成政から預かった名号軸を小屋に安置し西方堂と名付けたといわれる。

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春、4月下旬より、天神道は、カタクリの花が咲き誇ります。信州から糸魚川へと塩の道を歩く旅人は、初めて越後を目にする。峠の「城の越」はそんなことから、つけられた地名である。葛葉峠では、翡翠が産出される、小滝の明星山の勇壮な姿が目に飛び込む。ボッカトチノキ

島の大山桜は、5月上旬頃が満開
天神道は、島の大山桜満開のころ花が見ごろです。カタクリ、ミシミソウ、イカリソウなど
天神道より 大糸線 キハ58(残念ながら現在は走っていません)
城の越まで、石仏が点在します。
城の越 松本方面から塩の道を歩いてくると、この峠で初めて越後の村が見えた。峠で交わる尾根には、山城があった。今は、東へ高台へ登ると、三峰様が祀われている。
往来が賑わっていた当時、ここに茶屋があった。現在は、峠に水が引水されており喉を潤す水場となっている。
峠で交わる尾根には、山城があった。今は、東へ高台へ登ると、三峰様が祀われている。西の尾根は、紙すき牧場へと続く
紙すき牧場
砂山石仏 砂山集落は、明治45年、湯原川の氾濫で壊滅した。かつては、歩荷宿があった集落である。
猫鼻 石仏群
猫鼻

石仏群は、姫川に面する河原の高台にあることから、平成8年12月の蒲原沢の土石流の大惨事において難を免れた。
近くに、日帰り温泉がある。
塩の道が、姫川の河原と接するのはこの付近のみである。

蒲原~葛葉峠
葛葉峠 石仏群
ボッカ栃ノ木

蒲原から葛葉峠は、桜並木からはじまり、ユキツバキの中を、つづら折登る。「ウルル、ウルリ」に手こずる峠でもある。(現在もいます)アブの一種で、清流 の渓谷や周辺の山に生息する。呼気や車の排気ガスに含まれる、二酸化炭素、温かいものに寄ってくる。車内へも大群で侵入することもあり、刺されるといたい。残念ながら、虫よけスプレーや蚊取り線香は効果がない。肌を露出しない服装をおすすめします。

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初夏は、のどかな白池の湖畔を古道塩の道が通っている。元禄時代に信越の国境をめぐって越後根知村と信州小谷村との争いがあった地である。未だ、国土地理院の地図には、ここ白池から戸土境の宮付近に県境が明記されていない。争った背景には、ここ白池の水利権があったとも言われる。塩がこの千国街道塩の道から信州へ入れたのは、ここの水との代償ともいう説もある。その争いの余波であろうか、白池の呼び方であるが、越後は「しろいけ」、信州は「しらいけ」である。白馬岳の登山口の一つでみある蓮華温泉へ向かう林道の途中にある、白池(大所)も読み方は同じです。
12月末、根雪が積もった朝の白池である。 積雪期の大網峠越えは、牛が使えず、人の背中(歩荷)が
頼りであった。ここから、千国古道・塩の道の戸土集落まで30分らずの行程なので寄り道を勧める。
平岩 大網橋橋脚/姫川を渡る
大網橋~大網集落
ニカイ庚申塔 地名の由来は「荷換」塩の道の継荷宿があったことに由来している。

大網橋 大網橋が姫川に掛けられたことが、塩の道の主ルートが、千国古道から千国街道へと移行した大きな理由であった。

千国古道

糸魚川 - 根知 - 白池 - 角間池下道標 - アワガ峠 - 横川宿 - 地蔵峠 -                    水保(糸魚川) - 山寺 - 戸土 - 鳥越峠 - 横川宿 - 地蔵峠 

          
千国街道

糸魚川 - 根知 - 白池 - 角間池下道標 - 大網峠 -大網宿 - 大網橋 - 平岩

大網(古宮)諏訪神社

大網は、「おあみ」と呼称されているが、「うあみ」「おおあみ」とも。いずれも古代の峠の神の遥拝所である「拝み」に由来する説や、大網(古宮)諏訪神社は、建御名方命(後の諏訪様)の生誕地であると伝承があり、奴奈川姫がこの地に産屋を建てて周囲に大きな網を巡らしたので「大網」と云われるようになった説がある。

大網雪と日の祭典

大網宿は、信越国境の地であったため、歴史上、軍事、塩の道の要所であった。牛方宿、歩荷宿、そして、塩を中継する荷継宿があり栄えていた。塩を貯蔵するための「塩倉」が当時は幾棟もあった。唯一残っていた塩倉は、小谷村千国の牛方宿横に移築され保存されている。塩倉は、塩の影響で、 鉄などの金属は、錆びてしまうことから、鉄釘が使用されていない。

塩倉
塩倉/積雪期
芝原石仏群
芝原六地蔵 石工の思いが1体1体に込められている。六地蔵は、火葬場があった場所に祀わられていることが多い。
大網小原の滝 大網集落から林道を横川方面へ15分ほど歩くと、横川対岸に小原の滝が見える。
横川吊橋 横川の渡りは、塩の道・千国街道の難所のひとつでもあった。横川の川幅が狭まり断崖の岩を利用して架けられている。

川をどこで渡るか?どのような方法で?姫川に平岩にて大網橋が架けられたことで、小谷村燕岩までの道筋の主流は、姫川右岸の地蔵峠を越えるルートから左岸の葛葉峠へと主流が遷移した。

横川に架かっている吊り橋のように、両側の岩盤が頑強で、幅が狭いところに吊り橋が多いのは、増水時にも渡れる利点があることが理由である。

大日如来 塩の道の、馬頭観音、大日如来は、家畜や荷物を運んだ牛・馬の守り神で、亡くなった牛馬の弔いに祀わられた石仏が、塩の道には、多く見られる。
菊の花地蔵 塩の道を見下ろす大きな杉の傍らに祀わられている。
牛にとっては、この滝は難所であった。滝の落ち口に、岩盤を削り、牛が飲み易いように水のみ場が造られている。牛に対する労いが感じられる。
牛の水飲み場 塩の道・千国街道は、何故、馬でなく牛か?
馬が歩けないほどの地形を牛は歩くことができる。山道が急である、塩の道には適していた。人が手を使わないと登れない急坂は、牛は無理だが人が歩ける斜度は、牛も歩ける。

ウトウ 牛、人が歩くことにより、道の土が削れ、U字状に道が窪んだところ。大網峠直下(大網側)は、雪融けのころ、ブナの新緑と相まって見事な、澄み切った空間となる。

大網峠には、茶屋と歩荷宿があった。積雪期には、塩の道を往来する、歩荷、牛方に情報を与えていた。初夏には、オオイワカガミの大群落に花が咲き乱れる。

大網峠
ガニ池 ガニとは、牛に履かせる沓(くつ)の意で、古称である。この地で、塩の道を糸魚川から登ってきて、使えなくなった沓を履き替えさせて、この池の付近に掛けたことからの地名。
角間池 生息するアマゴイルリトンボ(糸トンボ)は、分布の南限とされている。
角間池下道標 文久元年(1861)糸魚川、羅漢和尚の建立。「右松本街道大網」「左中谷道横川」と刻む。右は、塩の道・千国街道、左は、塩の道・千国古道のルート(アワガ峠)を示している。小谷の燕岩にて分岐したそれぞれのルートがここで合流した。
アワガ峠

「諏訪の平」に、白池諏訪神社石祠が祀われている。諏訪、御柱祭の前年に行われる「薙鎌神事」は今は、近くの戸土集落の、境の宮と小倉明神にて、交互に行われているが、以前は、ここで行われたとも云われる。歴史上の、越後と信州の境である。

白池 水は澄み、見る位置、角度、光の加減などにより、湖面の色が変わる。特に、雪解け時は、コバルトブルーになる。水源は、池の西北の湖底から湧き出されている。池の東方向に、雨飾山、頚城の山並みがそびえ、湖面にその雄姿を映す。

大塞の神「一本杉」 村のはずれ、峠などの大木や大岩などを道を守る神として崇拝した。一本杉は勇壮で且つ背後の、雨飾山、駒ケ岳そして根知谷と、塩の道、大網峠越えを終えた旅人の心境になれる。
塩の道資料館 豪雪地帯特有の、開口部が小さく、軒が高い、茅葺屋根の建造物である。展示されている、大橇(おおぞり)は、京都東本願寺の柱木を横川集落から鳥越峠を越え、運搬した際に使ったもの。
白池地蔵 江戸末期、白池西側の戸倉山斜面にて発生した、雪崩にて、白池湖畔にあった、歩荷宿が崩壊し、多数の死者がでたことを供養した地蔵様。従来、白池にあったが現在は、山口へ移転した。

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七夕縄飾りの風習は、松本城下では、江戸時代には盛んに行われていましたが、今は、その姿を松本では見ることができません。しかしその風習は、塩の道にて、ここ根知谷に受け継がれたと考えます。ここ根知谷では、毎年 7月7日から8月7日まで、塩の道沿いの集落、根小屋、東中、上野、山口、和泉にて飾られ、飾り期間の最終日に根知川河川敷で七夕流しを行う。
山口関所跡 全国各地にある、多くの山口の地名と同様、「山への入り口」に由来する。武田・上杉の攻防では、重要な戦略地であった。江戸時代に入ると、塩の道、西廻りの道の虫川関所と同様に、ここを通過する荷物検め、「通常銀」の徴収がおこなわれていた。ここには、毘沙門天が祀われている。謙信との関わりであろうか?
稲葉石仏群
和泉のお堂

大江屋敷・百番供養塔 観音霊場巡礼供養塔のひとつ、(西国三十三観音、坂東三十三観音、秩父三十四観音)で、江戸時代には、これら霊場を巡拝(遍路)することが盛んになり、巡拝供養塔はその記念碑である。

根小屋城・栗山城・上城山城を総称して、「根知城」と呼ぶ。標高320mに位置し、本丸跡と、殿屋敷と称する郭跡を中心に郭跡17、削平地201、堀切16、堅堀15の大規模な山城である。築城年代は不明、永禄11年(1568)以降、謙信の書状に「信越国境の根知谷の警備を厳重にせよ}という指令がある。信玄に追われ、川中島の合戦の発端をつくった村上義清は、謙信から永禄8年(1565)に根知城主に任じられた。

井戸跡
本丸への道/カタクリ
堀切
旅人の墓 行き倒れた旅人を、仁王堂集落の人々が葬った墓。
中山峠 峠付近の道は、長年、塩の道を歩いた、人と牛の往来でできたウトウが続く。ウトウ 人、牛の往来により、道がU字に削られた場所。塩の道では、峠付近に多い。
カンパ地蔵 カンパとは、おできや湿疹のことを意味し、それらに効くと云われていた。地蔵堂の前には「兜岩」がある。謙信が信玄に塩を送ったときに、重臣がこの岩に兜を置いたこと
百番供養塔
大野道標 「左ハ志ん志やう」(信州)「右ハ井ノ口村人」と刻む。この近辺の塩の道には、宿、茶屋、店が多かったという
大野神社 古くは、八幡神社。明治維新以後、小坂神社、熊野神社などを合祀した。
十王堂 十王とは仏教と道教とが混じり合って伝えられ信仰されたものと云われており、閻魔大王をはじめとした、死者を司る10人の大王。三途の川で閻魔大王により天秤にかけられる。十王堂は村の出入口にある場合が多い。
馬頭観音
六地蔵
尻掛りの渡り 延喜古道 律令時、令制国の国府を結ぶ官道であり、小路とされた。延喜古道は、姫川を西川原の不動岩にて渡り、「尻掛りの渡り」大野を通り最明寺越えて、塩の道・東古道の起点、水保へ至る。
下村石仏群 石仏群の中央あたりに、三面六臂の馬頭観音が鎮座する。
のぞき
戸 ここより日本海側の坂を「メンパ坂」といった。弁当箱のメンパ(曲げ物)を落としたら下まで転がったとか、

中山橋石仏群 塩の道、カンパ地蔵付近にあったものを、明治になり、姫川沿いに道がつけられ、ここに移動した。庚申塔、善光寺式阿弥陀三尊仏などの石仏がある。

原山地蔵 180㎝の立像の地蔵。塩の道・西廻り、大峰峠の地蔵はこの地から移されたと伝えられる。
上刈みかん みかんの北限、北前船により運ばれてきたと伝えられ、航海の食糧として使われた。
経王寺 梵鐘は、廃仏毀釈により、天津神社の神宮寺のものを移築した。新潟県で最古の梵鐘。
牛つなぎ石/追分石 「四つ角」から塩の道が始まる、。四つ角では、塩の道と北陸道が交わる。安永5年(1776)に、牛つなぎ石/追分石が建立され、現在は、西性寺に保存されている。
白馬通り 蒸気茶屋(船員の休憩/宿泊)、ふんごみ茶屋(「ハバキ」を脱がないで土間まで踏み込んで火にあたれた茶屋)、歩荷宿、塩問屋などが並んでいた。塩の道・千国街道の起点である。写真には、廃止されている 大糸線キハ58国鉄色車両が写っている。
雁木 通りに面した家々の軒先の屋根を、歩道を覆うまで伸ばし、隣との屋根もつなぎ、積雪期において、その下を歩けるようにした道。
姫川下流より、塩の道の峠をのぞむ。①中山峠 ②鳥越峠 ③アワガ峠 ④大網峠

翡翠海岸 新潟県糸魚川市から富山県朝日町までの海岸をヒスイ海岸と呼ぶ。↓のピークは、「勝山城址」である。天正13年(1585)上杉景勝、直江兼続、羽柴秀吉、石田三成が「落水盟約」を交わした地である