富倉街道・謙信道

富倉街道 北国街道の新井宿 富倉街道の分岐に建つ 道標「右善光寺道 左飯山道」富倉街道は富倉峠を越え、飯山にて、飯山街道と合流する。越後の今町(直江津)からの塩の道で、富倉峠を越え飯山へと運ばれた。

謙信道 ここで取り扱う謙信道は川中島の戦い軍道で、第四次合戦(八幡原の戦い)永禄4年(1561年)の大規模な川中島の戦いで上杉側が妻女山に布陣出陣した際の軍道および越後に退却した道筋を推定した。

  お断り 戦国時代の軍道の道筋は、その後、生活道として遷移したと推定し、江戸時代に遺された路傍の石仏より想定しています。

 謙信道
  春日山城 高田
  高田 新井 (北国街道)
  新井 富倉峠 飯山 (富倉街道)
  飯山 綱切橋 木島平 須賀川 (須賀川道)
  湯田中 菅 小池峠 勝山の乗越し 灰野峠
  間山 間山峠 中塩
  八町 馬越t峠 馬背峠 若穂 松代 妻女山

新井道標「右善光寺道 左飯山道」 飯山道は富倉街道を指す

善光寺と刻む道標

右善光寺道 左飯山道
左たかだ
左たかだ 右とかり

春日山城 高田

春日城本丸より高田方面
本丸直下に井戸
400年を経て今も水をたたえる 城の立地条件としては最高
大手道の水場
番所跡
大手道入口
諏訪神社
富士神社
稲荷神社神社道標
木田新田三又路 追分地蔵道標 「左かゝかいたう」「右いまゝちみち」

高田から下流では、昔は関川のことを「荒川」と呼んでいた 今町は現在の直江津

近くの稲荷神社神社境内の道標との関係不明

古来より関川(荒川)の河口部左岸には今町(現直江津)の湊が開かれ栄えていました。、北陸道は応化橋(おうげのはし)にて渡っていました。江戸時代になり、松平忠輝が高田城を築城し、北陸道を、高田城下を通過する道筋とするため応化橋は破棄され、その後明治になるまで架橋されることは許されなかった。したがって、北陸道を西へ向かう旅人は、高田城下を通らざるを得なかった。今町へは木田新田三又路より向かう。

白山神社
北国街道追分道標「右於う志う道 左加かみち」
追分にあった道標は、宇賀魂神社境内に移設

北国街道追分は「北国街道」の終点ですが、佐渡の金銀を運ぶ街道として重要度が増し出雲崎まで延長され奥州道とも呼ばれていました。「加賀街道」の始点。

北国街道 高田~新井

札の辻
胎蔵院
正輪寺
最賢寺
神明社
専念寺
馬頭観音
地蔵尊
石碑
弘法の清水
願清寺
大和神社
願通寺
延命地蔵
瀬渡橋
和田村道路元標
明治天皇御小休所
出雲神社
地蔵様
馬頭観音
諏訪社
地蔵様
康源寺
石塚の一里塚
願楽寺
市神社
極生寺
上町延命地蔵尊

新井道標 右善光寺

富倉街道との分岐点

富倉街道

新井/北国街道分岐~飯山

新井道標 右善光寺道 左飯山道
秋葉神社
鳥坂村道路元標
正念寺
新井観世音
馬頭観音
諏訪社
大国主命
石仏 頭部欠損
菓成寺
願生寺
夜泣き地蔵
天皇社
馬頭観音
馬頭観音

右中山道 左いひ山道

右中山道 道標→北国街道(関山)→善光寺→北国西往還(洗馬)→中山道

本来の位置より移動している

神明社
石碑
浄円寺
馬頭観音
石碑
石碑
八王子神社
関止碑
石碑
野趣味の地蔵
国境の石仏群
石碑
馬頭観音
富倉神社
石仏群
富倉蕎麦 オオヤマボクチがつなぎ
柳原村道路元標

富倉峠越え

関屋庚申塔
峠入口
親子松
庚申堂跡
峠道
峠道
富倉峠
峠北道 石垣
峠南道 石垣

富倉峠は、崩壊により何度か変更され、ここは、明治10年からの峠道(県新道)。尾根道からの大将軍を辿る峠道は謙信道と呼ばれましたが維持が困難で廃道となりました。

大将陣跡馬頭観音 尾根伝いに多くの人が収容できる場所が開けている

謙信が川中島に向けて出陣した折、人馬を宿営させた場所 謙信を富倉村民がもてなそうとしたが、ふさわしい食器がないため、笹の葉に飯と山菜をのせて献上した。笹寿司起源ともいわれる

飯山方面
追善供養塔
大将陣分岐
峠道 2mほどのウトウが続く
峠道
案内
案内
庚申塔 移転
馬頭観音
千曲川下流方面
石碑
石仏
木島平方面
石碑 旭神社方面との分岐
大日堂
素盈鳴社
相撲塚

旭神社経由

旭神社
郷社旭神社門柱
石碑
石碑
馬頭観音 道標
台座 左たかだ 
弁天島石仏群
弁天島石仏群
諏訪社 秋葉社
庚申塔道標
左たかだ 左とかり台座に刻む
柳原道標

←冨倉ヲ経て新居町に至ル ↓飯山町ニ至ル →南条を経テ外様村ニ至ル

市ノ口稲荷社
英岩寺

飯山街道へ合流

飯山城址

永禄7年(1564年)8月、上杉軍は信玄率いる武田軍と川中島で再び対峙した(第五次川中島の戦い)。60日に及ぶ対峙の末に上杉軍は越後に軍を引いた。飯山城は、謙信が新たに築城した本格的な城であった。春日城と善光寺平との中間に位置する。

戦国時代、小菅山一帯は、上杉氏の 傘下に置かれ、謙信が信玄に合戦を挑んだ際には必勝祈願の願文を捧げました。永禄10(1567)年の川中島の戦いにて上杉軍は敗退し、武田氏の軍勢によって、本堂を除く堂塔はことごとく焼失したとされています。

小菅神社 奥社
仁王門下 善光寺道標
右えちご 左善光寺

飯山 綱切橋 木島平 須賀川 (須賀川道)

「甲越信戦録」より 永禄4年(1561年)9月10日、川中島で武田信玄と一騎打ちをした謙信は、主力部隊とはぐれ、和田喜兵衛、宇野左馬之介、和田兵部の3名になってしまった。謙信主従4人は千曲川の馬場ヶ瀬を渡り、対岸の牧島の川辺に着き 宇野、和田の両人は討ち死にし、謙信は和田喜兵衛とその場を逃れた。
 川田から保科から馬越峠を越え、山田越えをして、間山より更科に着いた。 高梨山(高社山)を左に見て、大首(飯盛山)の間から須賀川女という権現滝で疲れをいやし、下木島によやくたどりついた。安田の渡し場にて千曲川を渡った。 そして渡し場の大綱を切り落とし、船の往来ができぬようにした。これより飯山への入り口、安田の渡しを「綱切の渡」と今もいう。 「甲越信戦録」より

権現滝?樽川の雄滝と雌滝

高社山と飯盛山の間の道筋は、推定が難しく、綱切りの渡しから 木島平 須賀川地区への百体観音 夜間瀬までの道筋である「谷街道裏街道」に近い道筋と推定しました。

謙信の退却路として「甲越信戦録」に記述されている道筋

湯田中 菅 小池峠 勝山の乗越し 灰野峠

夜間瀬 庚申塔道標
是より右いいやま 左善光寺
道標 右 飯山道 左 善光寺道

佐野庚申塔道標

右 松代街道 左 菅 山田

桜橋 祠 石仏群
菅の高札 石仏群
見王寺
菅道標
←〇〇穂波温泉 中野方面
 →山田温泉行約二里

菅から山田へは、①小池峠 ②菅峠-建応寺跡-間山-間山峠 等の道筋が推定されるが ここでは①を次項にて②を記載

① 小池峠経由

地蔵様
祠 菅のトガ(イチイ巨木)
三沢山登山口観音様
御嶽神社不動尊
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小池峠 馬頭観音
小池峠下 小池
馬頭観音群
馬頭観音
関宮諏訪神社春宮
馬頭観音
藤沢橋
樋沢川上橋付近
馬頭観音
天照大神社
地蔵様
林道入口
城山城址分岐
城山城址跡
赤和眺望
赤和観音
庚申塔
勝山の乗越し
水中説明版
灰野峠
洞入観音堂
洞入観音堂の桜
道祖神 二十三夜塔
観音崎の石仏群 奈良(なろう)川と灰野川が交わる地点。さいがいが多く、多くの石仏が祀られている

道標 右米子滝山不動道 左灰野成田不動道
大日向神社
地蔵様
大日向観音堂
石仏
馬頭観音
庚申塔
三原道の元標 右仁礼 左灰野道

二本松

間山 間山峠 中塩

② 菅峠-建応寺跡-間山-間山峠

菅道標
←〇〇穂波温泉 中野方面
 →山田温泉行約二里
馬頭観音
菅峠 観世音道標 右山道 左山田道
菅峠 西側の踏み跡程度の道
建応寺跡

川中島合戦にて、天台宗の建応寺が消失したとの伝承があり、この地が建応寺と推測されている。

地蔵様
馬頭観音群
石碑
石碑
林道終点
間山峠 馬頭観音
間山峠 欅巨木
沼ノ入城跡
間山峠直下峠道
間山峠直下峠道
間山峠入口
ゲート付近
石仏
道祖神
山田村道路元標
馬頭観音
石仏
道祖神

馬背峠 妻女山

八町 参宮橋
高井八守神社
ケート付近より
馬越峠
峠の馬頭観音

宮王神社
木像道祖神(ドウロクジン)
上杉謙信陣屋敷跡
白髭大明神旧前宮跡
馬背峠
分岐
石仏群
双体道祖神
双体道祖神
石仏
観音様
専達三嶋神社
石仏 双体道祖神
観音様
供養塔
清水寺
石仏群 双体道祖神
広徳寺石仏群
双体道祖神 木像道祖神
石仏群 馬頭観音
双体道祖神
高井保科神社
延命寺
町滝崎 石仏群
双体道祖神

双胎道祖神は舎利型であったが劣化が進んでいる。保科宿の入口から移転。左側面に天文三 (1543) 年とあることから北信では最も古い道祖神碑。

星塚遺跡
宮崎遺跡
東山神社
川田の筆塚
東光寺
川田条里遺跡
松代街道 桝形 秋葉様
川田宿本陣跡
高札場
桝形 秋葉社
松代藩口留番所跡
北向き観音
観音様
道祖神
町川田神社
関崎の渡し跡
関崎越え

古道の道筋を遺す 2019年台風18号にて崖崩れがあり石仏が損傷、埋まってしまっている。 

高井大室神社
石仏群
禅福寺
地蔵様

大室 尼巌山登山口より 可候峠へ

山本勘助の墓

泣坂
湿地

松代町大室から尼巌山への登山道が尾根にでたところが、泣き坂で、可候峠へは西に向かう尾根伝いに進む。

可候峠(そろべく)
大室側への踏み跡
松代眺望
可候峠への松代温泉側の道は進入禁止
石仏群
oplus_131072
松代温泉源泉
黒猫神社
象山神社
登山口
石碑
像山より
千曲川方面
母袋山将軍塚古墳(奥象山山頂)
分岐
堀切
やせ尾根
鞍骨山(くらぼね)
鞍骨城址
千曲川対岸善光寺平眺望
二本松峠(坂山峠)
石仏
天城山(てしろやま)
坂山古墳 石室の跡
坂山古墳

天城(てしろじょう)城跡。永禄4年(1561)の川中島の戦いで、謙信が陣を構えた妻女山から続く尾根上の天城山(694m)に築かれた城。同じ尾根にある鞍骨(くらぼね)城の出城

陣馬平

第四次川中島の戦いの際に上杉謙信が本陣を構えた

地蔵様
妻女山展望台より
上杉謙信槍尻の泉

永禄4(1561)年、川中島平にて武田・上杉両軍による4回目の戦が行われました。上杉軍は13,000の本隊を率いて妻女山に、武田軍も20,000の兵を率いて眼下の海津城に入ります。武田軍による「きつつき戦法」、上杉軍による「車がかり戦法」による激しい戦いで両軍多くの戦死者が出ました。信玄が多くの犠牲をはらいながらも上杉軍を押し返したことで川中島一帯は信玄の支配下となりました。